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2022年6月3日金曜日

「入谷・下谷」と樋口一葉の世界「吉原」を散策

「入谷・下谷」と樋口一葉の世界「吉原」を散策

 2022年5月31日(火)12名参加にて散策の会が開催されました。当日の午前中は時折小雨交じりの梅雨を思わせる天候でしたが、後半はすっかり雨も上がり絶好の散策日和となりました。

入谷鬼子母神(仏立山真源寺 法華宗)

江戸時代の戯言で現在でも使われている「恐れ入谷の鬼子母神(この言葉は太田蜀山人の狂歌が元だそうです。)」の鬼子母神で、関東三大鬼子母神の一つだそうです。

また、このお寺は「朝顔市」でも知られています。江戸後期に当地で朝顔栽培が盛んだったことから境内で農家が育てた朝顔を披露したのが起源だそうです。一時期廃れたそうですが太平洋戦争敗戦後に朝顔市が復活し現在では七夕の前後三日間(768日)寺院と付近の商店街で盛大に開催されます(2021年はコロナ禍のため中止されました。)


鬼子母神はヒンズー教の神様で、数多くの子供を産んだが、性質は凶暴で自分の子供を育てるための栄養を取る必要から人間の幼児をとって食べるため恐れ憎まれていた。これを見かねたお釈迦様が、鬼子母神が最も愛していた末っ子を隠してしまった。鬼子母神は半狂乱で世界中を探したが見つからずお釈迦様に助けを求めた。お釈迦様は沢山いる子供の一人を失っても辛いのに一人の子供を失った時の嘆きはどんなものかと諭した。鬼子母神は自分の過ちを悟り以後安産と子育ての神となったとのことです。

 小野照崎神社

御祭神の小野篁(おののたかむら)は平安期有数の歌人であり、漢詩は日本の白楽天と呼ばれ、絵も大家であり、法律も当代きっての学者、参議という国家の要職を務め、更には地獄と現世を往来して閻魔大王の裁きの補助も務めたというスーパーマンです。なお、江戸末期に両国の回向院から菅原道真の霊を迎え合祀されています。(小野妹子、小野篁、小野小町、小野道風は同一の家系のようです)

この神社に関するエピソードとしては、渥美清がまだ売れない時代に参拝して、大好きなタバコを一生吸わないから仕事をいただきたいと祈願したところ寅さん役が決まったとのことです。寅さんが首からかけているお守り札はこの小野照崎神社のお守りだそうです。

なお、或る芸人が寅さんにあやかってタバコをやめると言って願をかけ役をもらったが誓いを破ってタバコを吸ったところ仕事が全部キャンセルになったそうですから願掛けは真剣な誓いが必要ですね。


神社の境内には天明2年に築かれた富士塚(「下谷坂本の富士塚」として国の重要有形民俗文化財になっている。)があるが、普段は開放さておらず富士山の山開きに合わせて630日と71日に限って一般に開放されるそうです。また道案内の神様である猿田彦命を祀った庚申塚があります。

三島神社

弘安4年(1281年)の元寇に際して河野通有(伊予水軍の将)が氏神である三島大明神に戦勝を祈願して出陣、三島大明神の神使である白鷺に導かれ華々しい戦果を挙げた。


その帰陣にあたり夢の中で武蔵野国豊島郡に三島大明神を勧請せよとのお告げを受け上野の山に奉斎したものが始まりで現在に至るまで歴代の宮司は河野通有の子孫が務めているそうです。

境内摂社に火除稲荷神社があるが、この神社は当地の地主神で、元々は徳川氏が火難方位除けのために創建したが、その後この地が火除地に定められたことから火除稲荷と称されたとのことです。

また、境内に「雷井戸」があります。これは、昔武蔵野は雷が多く或る時三島神社に雷が落ちたので神主が雷を井戸に封じ込めたところ、雷が井戸から出してほしいと頼むので、二度とこの地に落ちないことを誓わせ許した。それ以来この辺りには雷が落ちないと云われ雷除けの井戸として信仰されているとのことです。

<情報>
ウクライナ飴、雷飴?、アマビエ飴ウクライナ(黄)
三島神社宮司河野正枝様から直々に「ウクライナ飴」ほかをいただきました。ウクライナ飴売り上げの一部をウクライナの方々への支援のため日本ユニセフ協会に寄付されているとのことでした。なお、アマビエ飴ウクライナにはウクライナ国旗色に因み「黄色」と「青色」とがあるようです。(散策を終えてから、調べました。)



  実は河野通有が武蔵野国豊島郡に勧請した三島神社は、現在三つの神社に分かれています

上野の山に奉斎された三島神社は江戸期に入ると幕命(1650年、三代将軍家光)で金杉村(現台東区根岸)に移転させられ、更に1671年に浅草小揚町(現台東区寿)に移転させられたので、金杉村の氏子は神社から取り残られてしまうことから改めて金杉村の根岸と下谷に分霊を勧請することにした。その結果、浅草小揚町(現台東区寿)に移転した本社三島神社と根岸の元三島神社とこの下谷の三島神社が祀られる結果になっています。今回は根岸の元三島神社もお参りしました。

ちょっと休憩(昼食)

次の散策に移る前に腹ごしらえ!「世話 ネパール・インドレストラン SEWA 下谷本店」で、ボリュームたっぷりの料理(カレー+なんと大きなナン、・・・)を平らげ、いざ出発!!


 飛び不動尊正宝院(龍光山正宝院三高寺)

享保
3年(1530年)の創建と言われる修験寺です。名前の由来は、昔当寺の住職が大和国大峰山に不動尊像を持って修行に行ったところ不動尊像が一夜にして当地に飛び帰り人々にご利益を授けたという言い伝えから‘飛び不動’と呼ばれたとのことです。

最近は航空安全の神様として御参りする人も多いとのことです。ゴルフ守り札もあります。飛んでもOBにならないかもしれませんね。

なお、飛び不動から一葉記念館に行く道すがらに一葉の旧居跡があります。

一葉記念館

樋口一葉(本名:奈津)は明治5年に生まれ29年に246箇月という短い生涯を終えているが死ぬ前の2年弱の間に代表作の「大つごもり」、「たけくらべ」、「にごりえ」、「十三夜」などを発表している。台東区が代表作「たけくらべ」の舞台龍泉寺町に女流文学者の単独文学館として記念館を建設した。

2022年5月31日(火)一葉記念館前にて

一葉記念館前の一葉公園



吉原神社・新吉原花園池(弁財池)跡

吉原神社の御祭神は稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁財天である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で開運・商売繫盛・技芸上達などの御神徳があると言われており、新吉原に古くから鎮座していた玄徳(よしとく)稲荷社と廓の四隅に廓の守護神として祀られていた四つの稲荷社の五社が明治5年に合祀され吉原神社になった。境内には久保田万太郎の句碑があります。



また「お穴様」と呼ばれる土地神様を祀るお社もありますのでお参りしましょう。併せて弁財天をお祀りし吉原の名残を残す新吉原花園池(弁財池)跡(関東大震災時に多くの人が池に逃げてきて亡くなった。現在池はほぼなくなっている。)を巡りましょう。

(おおとり)神社

通称「おとりさま」と呼ばれ浅草の酉の市で有名な神社です。

御祭神は「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」と「日本武尊(やまとたけるのみこと)」で、天日鷲命は天照大御神が天岩戸に隠れ天宇受売命(あめのうずめのみこと)が舞われたときに弦楽器を奏でた神様で、天岩戸が開いた時にその弦に鷲が止まった。世を明るくする瑞祥を現した鳥ということで、それ以降この神様には鷲という字を入れ鷲大明神とか天日鷲命と呼ばれることになったようです。
後に、日本武尊が東夷征討のため社に立ち寄り先勝を祈願し、戦勝後の帰路に立ち寄り社前の松に武具の熊手をかけて戦勝を祝いお礼参りをした日が11月の酉の日だったことから祭礼日になり、

その故
事から日本武尊も御祭神になったとのことです。



境内には俳人の宝井其角の句碑、正岡子規の句碑、樋口一葉の文学碑があります。

なお、この神社にもゴルフの守り札があります。鳥のように飛ぶんでしょうかね。


補足

一葉の「たけくらべ」に「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろどぶに、ともしびうつる三階のさわぎも手に取るごとく、明けくれなしの車のゆきかいに、はかりしれぬ全盛をうらないて、大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の街と人の申しき。三島神社の角を曲がりてよりこれぞと見ゆる家もなくーーー」とありますので、

現状はいささか寂しい状況ですが折角ですから「吉原大門跡」、「見返り柳」や「お歯黒どぶの石垣擬定地」も見ていきたいと思います。その他にも「八月二十日は千束神社のお祭りにてーーーー」とか「酉の市を除いては一年に一度の賑わひぞかし三島さま小野照さまーーーー」などとあります。

 漫画「あしたのジョー」の人形も土手通りにあります。チョット寄ってみました。



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