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2023年10月31日火曜日

散策の会「上野の山から東照宮・寛永寺を経て根岸の子規庵へ」結果報告

    上野の山から東照宮・寛永寺を経て根岸の子規庵へ 

今回の散策にご参加頂いた皆さん
今回の散策は令和5年(2023)10月21日(土)に連日続く残暑と違い秋らしい爽やかな天候に恵まれ23名という大人数(20人を超えたのは散策第1回の国会見学以来のことです)の参加を得て実施されました。
吉祥寺からJR中央線神田駅乗り換えで上野駅に全員無事到着、不忍口から上野のお山へ第一歩。見慣れた上野公園の筈なのに、こんなところにも史跡があったのかと「寛永寺総門の‘黒門’跡」に驚き第1号! ともあれ先ずはお上りさんよろしく西郷さんにご挨拶とばかりに全員集合してパチリ。続いて西郷像の直ぐ後ろに存在しているにもかかわらず、ほとんどの人が存在を知らない「彰義隊の墓」へ向かいました。

今年の425日の日本経済新聞に東京芸大の小川名誉教授が書かれた記事によれば、この彰義隊のお墓は彰義隊生き残りの隊士が建てたもので、その中心になった人が小川教授の祖父小川興郷(オガワオキサト)氏で代々小川家がお墓を守ってきたが2003年に東京都に移管されたとのことです。


彰義隊の「戦死之墓」全景
彰義隊は、徳川15代将軍徳川慶喜が慶応4年(1868)に大政奉還し上野寛永寺に蟄居した際に慶喜の助命嘆願のために同志を募ったことがきっかけで人々が集まり「彰義隊」が結成された。当初は浅草に屯所を設けたが徳川家から正式に慶喜の警護を託されたため徳川宗家の菩提寺である寛永寺境内に本拠を移した。慶喜が水戸に退隠後も徳川家霊廟警護などを目的に上野の山に立てこもり、やがて新政府と対峙するようになったため明治元年(1868)5月15日に新政府軍の攻撃が開始され1日で制圧されました。
この彰義隊の墓のある場所は、彰義隊の隊士を火葬にした場所だそうです。大きな墓石は明治14年(1881)建立で彰義隊が政府に敵対したことを配慮して「戦死の墓」とだけ彫られています。文字は山岡鉄舟の筆だそうです(彰義隊の墓自体は明治7年に造ることが新政府によって認められていたとのことです)。また、うっかり見落としそうな正面の小さな墓石(このお墓には「彰義隊戦死之墓」と彫られています)は明治2年に寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに附近の地中に埋納したものを後に掘りだして設置されたものだそうです。

天海僧正毛髪塔
彰義隊の墓をあとにして向かったのが、これも都指定旧跡なのに知られていない「天海僧正毛髪塔」南光坊天海(慈眼大師)は家康の側近として幕府の寺社・神社に対する宗教政策及び朝廷政策に深く関与し、また川越の喜多院や家康を祀る日光山を主宰したほか2代将軍秀忠の命により上野に東叡山寛永寺を開いた。また日光山と寛永寺の住職に対する「輪王寺宮」の称号を朝廷から得たのも天海による家康を祀る日光山の格式を上げるための政策と言われています。また家康の死後に神号を巡って黒衣の宰相と言われた金地院崇伝と争い崇伝が「大明神」を主張したのに対して天海は豊臣秀吉の神号が豊国大明神であり豊臣は結局滅びたので「大明神」より「大権現」が優れていると主張して秀忠が「大権現」に決定したと聞いています。天海はこの地にあった寛永寺子院「本覚寺」で108歳で死去、供養塔も立てられ後に毛髪を収めた塔も建てられ毛髪塔と呼ばれているとのことです。

なお、天海を巡る伝説として「天海=明智光秀」説があります。これは次のようなことがあるためだそうです。

光秀が山崎の戦の後に討たれたとされているが、京都宇治には戦いのあと光秀を匿ったという伝承を持つ神社や寺があること、比叡山には俗名を光秀という僧の記録があり光秀が討たれて亡くなったとされる天正10年(1582)以降に光秀の名前で寄進された石碑があるなど山崎の戦以降も生存していたとする生存説や伝承があり、更には徳川家にとって大切な日光に明智平があり天海が名付けたといわれていること、家光の乳母は光秀の重臣斎藤利三の子供の春日局であること、家光の子の家綱の乳母も光秀の重臣溝尾茂朝の孫である三澤局であること、天海の墓所が光秀の居城があった近江坂本にあることなどだそうです。

次の花園稲荷神社・医薬祖神五條天神社へ向かう途中で、古事記や日本書紀にも登場する百済の学者で日本に論語・千字文などを伝え朝廷に仕えた「王仁博士の顕彰碑」に感心したり、京都の清水寺を模した舞台を持つ清水観音堂「秋色桜(しゅうしきさくら)」「月の松」を見物しました。


王仁博士の顕彰碑を見る皆さん

秋色桜

月の松

固有名詞を持つ桜「秋色桜」の由来は、元禄のころ日本橋小網町の菓子屋の娘でお秋という13歳の子が花見客で賑わう桜の様子を「井戸端の桜危なし酒の酔い」と詠み寛永寺の貫主輪王寺宮に絶賛され有名になり以来この桜を秋色桜と呼ばれるそうです。

「月の松」は広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれている丸く月のような枝を持つ松で清水観音堂の舞台から眺めると不忍池の弁天堂が円の中心にきます。

次に向かったのが花園稲荷神社(忍岡稲荷神社)・医薬租神五條天神社です。

通常、神社の社殿に向かう場合には、一般的に坂道を登って向かうか水平の道で向かうこと
花園神社の階段
になりますが、花園稲荷神社・は通常と異なって階段を下って向かうことになるので珍しいといえます。
花園稲荷神社は赤いい鳥居がズラッと並びその下の階段を下って参拝に向かう姿が特徴的で、元は忍岡稲荷神社の名称だったそうです(石窟の上に建っていたことから「穴稲荷」とか「お穴さま」の俗称で呼ばれることもあったようです)。創建は不明ですが承応3年(1654)に天海大僧正の弟子が廃絶していた社を再建し上野の山の守護神にしたとのことです。幕末の上野戦争の最後の激戦地となり焼失したが明治6年に篤志家によって再建され花園稲荷神社と改名したそうです。境内の奥にある小さな社は、寛永寺が建立されるときに、この忍岡に住んでいた古狐(弥右衛門狐)が棲むところをなくすことを憐れんで洞窟を作りお祀りしたと伝わっているとのことです。

お穴さま入口
子狐と親狐
今でも穴が残っており隣接する五條天神社と併せて上野の山の人気パワースポットになっています。ご利益は恋愛の縁結びだけではない人間関係全般の縁結び・夫婦和合・子授けなどだそうです。なお、花園神社本堂前の狛犬ならぬ狛狐の母狐の左腕の前に小さな子ギツネがいました。かわいいですよ。

医薬祖神五条天神社
医薬租神五條天神社の御祭神は大己貴命と少彦名命で相殿神が菅原道真になっています。創建は不明ですが日本武尊が東夷征伐(景行天皇の御代:110年頃)のため上野忍岡を通っていた時に大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)と少彦名命(すくなひこなのみこと=大国主命の国造りの協力神で医薬の神)の二神に難儀を救ってもらったことを感謝し二神を祀ったことが創祀とのことなので大変古い社のようです。ご利益は無病健康、病気平癒です。また相殿神として菅原道真公が寛永18年(1641)に合祀されたので天神社になっていますが菅原道真公をそもそもの起源としない天神社で珍しいケースです。

お穴さまと天神社を後にして上野東照宮に向かいました。

上野東照宮(台東区上野公園9-88徳川家康を(東照大権現)を祀る神社で寛永4(1627)創建です。正式名称は「東照宮」ですが東照宮は上野以外にも栃木の日光、静岡の久能山、港区の芝などにあるので区別するため所在地の名称を冠することが慣習のようです。

そもそもは元和2年(1616)危篤の徳川家康が藤堂高虎と天海に自分の魂が末長く鎮まるところを造ってほしいと遺言されたため藤堂高虎の上野の屋敷内に建てられたと社伝にあるよ
東照宮を散策する皆さん
うです。現在の東照宮は3代将軍家光(家康の孫)が改築したもので上野戦争や関東大地震・太平洋戦争でも焼失を免れ国の重要文化財に指定されています。このため強運の神様として出世・勝利・健康長寿がご利益のようです。見所としては黄金の唐門・社殿、神木の銀杏、透塀、銅製の燈籠群、旧寛永寺の五重塔や境内にあり受験・就職の成就にご利益のある栄誉権現(御狸様)、1980年に日中友好を記念して開園された牡丹苑などがあります なお牡丹苑は、春牡丹が4月中旬~5月中旬、冬牡丹が1月1日~2月中旬です。秋はダリヤの時期で今年は9月16日~10月29日開催されていますが、牡丹園は、今回はスキップしました東照宮拝観料500円でしたが今回は団体割引で400円 ラッキー!



池田家黒門

お腹もすいて、いよいよ待望のレストランに向かいますが、一寸その前に、嘗て東宮御所の門にもなった大名屋敷の立派な門である「鳥取藩池田家江戸屋敷正門(黒門)・重要文化財」を眺めました。さすがに凄いです

東京都美術館のレストラン「ミューズ」では、予約不可なため少々待たされましたが4人~6人のグループに分かれて各々好きな食事を選んで体力回復です。

旧博物館動物園駅
昼食も終えて次の目的である寛永寺に向かいます。向かう途中で国の登録有形文化財である東京芸術大学の「旧東京音楽学校奏楽堂」を眺めたり昭和天皇の御前会議で建設が勅許された「旧博物館動物園駅舎(都選定歴史建造物・出入り口の扉には上野公園の諸施設をモチーフにした彫刻があります)」、黒田清輝の作品を展示する「黒田記念館(入場料無料)」「国際子ども図書館(国立国会図書館の分室)」の建物などに注目しました。

東叡山寛永寺(天台宗別格大本山 台東区上野桜木1-14-11

寛永寺根本中堂
寛永2年(1625)に天海大僧正(慈眼大師)によって徳川幕府の安泰と平安を祈願するために江戸城の鬼門(東北、艮寅の方角)に当たる上野の台地に建立された。
山号は「東の比叡山」をあらわし、寺号は「寛永年間の創建」を表しています。後に四代将軍家綱の霊廟が造営されたことにより将軍家の菩提寺を兼ねることになったようです。また山主に皇族(輪王寺宮)を迎え入れたことにより江戸時代には格式・規模において我が国随一の寺院だったそうです。当初の根本中堂は上野戦争で焼失してしまい、現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院のものを移築再建したものだそうです。

今回は根本中堂に上がって中の荘厳な諸仏(薬師如来を日光・月光菩薩が囲みさらに十二神将が周囲を固めていました)を参拝してきました。境内では寛永寺の見所である旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦や徳川綱吉霊廟勅額門・徳川家綱霊廟勅額門(2門とも重要文化財)観てきました。

旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦
徳川綱吉霊廟勅額門

徳川家綱霊廟勅額門








 
いよいよラストスパートをかけて根岸・子規庵(都指定史跡、正岡子規旧居 台東区根岸2-5-11)に向かいます。
 
子規庵
子規庵は、正岡子規が故郷松山から母と妹を呼び寄せ生活し34歳の生涯を終えた家です。子規庵保存会の栞によれば元々は加賀藩前田家の下屋敷の侍長屋で二軒続きの一軒であったそうで、子規はこの自分の家
について「我に
20坪の小園あり、園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控えたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翻る様もいとゆたかに眺めらる。」と記しているそうです。子規庵拝観料500円ですがまたまた団体割引で400円、中学生以下は無料 団体もよきかな!

この子規庵は昭和20年(19454月の戦災で焼失しましたが、昭和251950にほぼ当時のままの姿に再建され、現在に至っているとのことです。子規が書いている「小園(庭)」も散策してみました。

子規庵に続いて善性寺(関妙山善性寺 日蓮宗 荒川区西日暮里5-41-14です
このお寺は長享元年(1487)創建され、寛文4年(1664)に六代将軍徳川家宣の生母長昌院が遺言によって当寺に葬られたことから将軍家ゆかりの寺となった。また家宣の弟である松平清武が当寺に隠棲したため将軍家宣がたびたび訪ねたことから門前の音無川に架けられた橋に「将軍橋」と名がつけられたそうです。現在は川は無いようですが道路から山門に入るところに石の橋があり、よく見ると「将軍橋」と彫られていましたので見落とさないようにチェックしました。上野戦争の時には彰義隊の屯所にもなったとのことです。なお、境内には安土桃山時代に造られたという大きな大黒天(不二大黒天)の石像や昭和の大横綱双葉山の墓がありましたのでお参りしてきました。


羽二重団子本店
このお寺の門前に文政21819)に開かれ子規をはじめ夏目漱石・泉鏡花・久保田万太郎など明治~昭和の文豪らによって愛された団子屋「羽二重団子本店(江戸時代には「藤ノ木茶屋」と称したとのことです)」がありました。お土産にしようと立ち寄ったのですが数人の人が購入した後で残念なことに売り切れになってしまい購入できない人が出てしまいました。なお、残りの人はお店の人に聞いて日暮里駅のエキュート店で購入しました。

この店のホームページによれば、子規の句に「芋坂の団子屋寝たりけふの月」、「芋坂も団子も月のゆかりかな」、「名物や月の根岸の串団子」などの句があるようです。また漱石の「吾輩は猫である」の中に猫のセリフとして「~芋坂に行って団子を食いましょうか、先生明日この団子を食ったことがありますか、奥さん一ぺん行って食ってご覧、柔らかくて安いです~」と書いており、久保田万太郎も「~わたくしに、根岸まで行く用があったので、その帰り、そうだ、ここまで来たものだと、芋坂の羽二重団子を仕入れ~」と書いているそうです。その他にも、船橋聖一や司馬遼太郎なども作品の中でこの店や団子について書いているそうです。

このお店に向かって右側の道が「芋坂」で、上野戦争の時には戦に敗れた彰義隊の戦士が駆け下りてきたというエピソードが残っているそうです。

土曜日・良い天候・外国人も含めて人出が多いという「賑わいの3拍子が揃った上野公園を20人を超える団体での散策でしたが皆さんのご協力で迷子になる人もなく無事に散策を終了することが出来ました。有難うございました。また次回もよろしくお願い致します。

文および写真:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)
(写真の一部 散策の会会員 平尾和寿(1970経)撮影※)



ーーー散策ギャラリー 上野・根岸編ーーー

(ギャラリ―には一部当日以外の撮影日の写真も含まれています)

        

最初の史蹟「黒門跡」

黒門の説明


彰義隊の墓の説明板

土中に隠されていたお墓


清水観音堂

お祀神は千住観世音

観音堂と月の松を下から見る



「お穴様」:左に見える格子戸を開けて入ります

突き当り左に狐の穴があります


五条天神に向かう皆さん

蓮の花のような天神社の手水舎


東照宮唐門:これから中に入ります

東照宮透塀


東照宮社殿

最長老 ひと休み








      境内社:御狸大権現

銅の燈籠群



さて、お昼も食べて再出発

 




  寛永寺旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦

現在の根本中堂の鬼瓦









昭和の名横綱「双葉山」のお墓


 羽二重団子の由来

羽二重団子の由来を観る