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2021年10月31日日曜日

第39回武蔵野三田会ゴルフコンペ結果報告

 晴天の10月29日(金)八王子C.C.にて、当初29名がエントリーしていましたが、最終的にそれでも過去最多となる6組24名(3組ずつOUT & IN 同時start)が参加して、第39回ゴルフコンペが開催されました。

2021年10月29日(金)於:八王子C.C. 集合写真

今回は本年4月以降武蔵野三田会会員となられた4名の方が参加され、Golfを楽しみながら新入会員の方々との交流を図ることが出来ました。競技は新新ぺリア方式で行われ、津嶋さんがぶっちぎりの優勝(Gross 93 HDCP 25.6 NET67.4)、準優勝は酒匂さん(Gross 96 HDCP 24 NET 72.0)、そして髙山新司さんが三位(Gross 98 HDCP 24 NET 74.0)に入りました。前回優勝の鷲田さんはさすがのBest Gross (92)でしたが、惜しくも4位という結果でした。

表彰式・団欒風景
優勝の津嶋さん(右)と前回優勝の鷲田さん

第3位の髙山さん
準優勝の酒匂さん
ベスグロの鷲田さん(左)と幹事役の平尾さん

次回は、武蔵野三田会・三鷹三田会第2回合同ゴルフコンペとして2022年4月8日(金)に八王子C.C.にて開催いたします。参加者の増加傾向を考慮して15組確保してありますので、皆様奮ってご参加下さい。


2021年10月20日水曜日

神田から人形町散策:結果報告

2021年10月19日(火)曇り時々雨、気温15℃ と11月下旬を思わせる天気予報でしたが9名が参加しました。幸いと、雨にはほぼ遭わずに済み約1年振りの散策の会を楽しみました。結果報告:JR吉祥寺駅から秋葉原に向かい散策のスタートです。 

散策 神田から人形町

 柳森神社(主祭神:倉稲魂大神 クライナタマノオオカミ)

長禄2年(1458年)太田道灌が江戸城の鬼門除けとして伏見稲荷大社から祭神(宇迦之御魂命)を勧請して創建された。
柳の木が多く植樹されたので柳森の名前がついたようです。江戸時代には日本橋堀留町の椙森神社・新橋の烏森神社と共に「江戸三森」と言われていたとのことです。

 

神田川対岸からの柳森神社
たぬき(他抜き)

龍神、犬(狗)神、狐神
おたぬきさん(福寿神祠)
この神社の特徴として境内に多くのお社があることです。そのうちの一つに福寿神祠(稲荷神社)があります。このお社はもともと五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が江戸城内に「福寿稲荷」として創建されたとのことですが、「狸」を祀っています。桂昌院は八百屋の娘だったが春日局に見いだされて三代将軍家光の側室になったシンデレラ的な女性で名前が「お玉」であったので「玉の輿」という言葉の由来ともいわれ、「他を抜いて玉の輿に乗った」ことから「たぬき(他抜き)」を祀り出世開運・必勝のご利益があるといわれています。
(境内には、狐神、犬(狗)神、狸神、龍神の四神の像がありますので全部探してみてください。)

2021年10月19日参加者記念撮影
 
 
2021年10月19日参加者記念撮影

玄武館跡

江戸時代は「お玉が池」と呼ばれた土地にある北辰一刀流を開いた千葉周作の道場跡です。
千葉周作は「お玉が池の先生」と呼ばれ漫画の「赤胴鈴之助」のモデルでもあり、竹刀による稽古法を考案し、後年は水戸斉昭の招きを受けて水戸藩の剣術師範となっています。

繁栄お玉稲荷

神田お玉が池の由来
繁栄お玉稲荷
お玉が池は、もともとは不忍池程度の大きさがあり景勝地だったとのことですが徐々に埋め立てられ住宅地になってしまったとのことです。
お玉が池の名称は、伝承によれば池の端の茶屋に「お玉」という美貌の娘がいたが、二人の男から言い寄られ悩んだ末に池に身を投じてしまった。
人々がこれを憐れみ桜が池と呼ばれていたのをお玉が池と呼びお玉が池稲荷を建立し彼女の霊を慰めたとのことです。現在東京都の旧跡として「繁栄お玉稲荷」がビルとビルの間にひっそりとあります。










十思公園(じっしこうえん)――伝馬町牢屋敷跡・牢屋敷展示館・時の鐘

十思之疏の由来

明治末期から平成2年まで、ここに十思小学校があったことが名前の由来のようですが、「十思」とは中国の司馬光による歴史書にでてくる「天子がわきまえるべき10ヶ条の戒め(十思之疏)」からとられているとのことです。

松陰先生終焉の地

江戸時代この地には所謂「伝馬町牢屋敷」がおかれていた場所で、吉田松陰、高野長英など幕末の国粋思想家達が処刑(斬首され遺骸は小塚原刑場に放置)された場所でもあり松陰処刑の石碑なども残っています。

 
地下から現れた牢屋敷の石垣

また、隣接して「小伝馬町牢屋敷展示館」があり小さいけれど当時の牢屋敷の内部の正確な模型や地下にあった江戸期の上水井戸・木製の水道管などを見ることが出来ます。

なお、公園の鐘楼には「石町(こくちょう)の時の鐘」が設置されています。石町(後の本石町、現在の室町4丁目あたりのようです)の時の鐘は江戸で最初に設置された時の鐘です。
江戸の町の拡大に伴って9ヶ所に時の鐘が設置されていたようです(本石町、上野寛永寺、市ヶ谷八幡、赤坂圓通寺、芝切り通し、目白不動尊、本所横堀、浅草寺、四谷天龍寺)。

椙森神社(すぎのもりじんじゃ)


江戸三森の一つであり日本橋七福神(恵比寿神)の一つでもあります。
田原(俵)藤太秀郷(藤原秀郷)が平将門の乱を平定するため戦勝祈願し戦後に白銀の狐の像を奉納したといわれており、太田道灌も雨乞いに霊験があったとして山城国稲荷山から伍社稲荷大神を勧請したとのことです。
また、この神社は江戸時代に宝くじの前身である富興業が行われたことから、唯一「富塚」のある神社としても有名です。
富塚

当選を祈願?
ちょっと立ち寄ってみますので当選を祈願してはどうでしょう。
なお、毎年9月2日10時3分(「くじ」、「とみ」の語呂合わせ)に祈願祭があるようです。参加してみられてはどうでしょうか。

玄冶店跡(げんやだな)

江戸前期の医師で徳川家の御典医岡本玄冶の拝領江戸屋敷の跡(岡本玄冶は1645年に没し広尾の祥雲寺に葬られている)。

現在は史蹟の碑と説明板が建てられている。


玄冶店の名は歌舞伎狂言として嘉永6年(1853年)に中村座で初演が行はれた「与話情浮名横櫛(よはなさけ、うきなのよこぐし)」の「源氏店(玄冶店)」の場で「お富と切られの与三郎」の舞台となり世に知られるようになった。

「お富・与三郎」は千葉に在住していた実在の人物で江戸長唄の名家<四代目芳村伊三郎>と伊三郎が見初めた茶屋女の<おきち>だが、おきちには近くの親分山本源太左衛門という旦那がいた。
このため二人は木更津に逃げたが子分たちに追われ男は切り刻まれて、すまきにされて海に投げ込まれるが奇跡的に江戸の漁師に助けられた。
女は連れ戻されて江戸に売られた。
男は後年江戸に出て唄方となり四代目芳村伊三郎を襲名するが顔や体に傷跡が残り、これを目にした八代目の市川團十郎が伊三郎・おきちをモデルに面白おかしく善玉・悪玉を誇張して脚本をかかせ歌舞伎狂言にしたものが与話情浮名横櫛です。南品川の天妙国寺には与三郎の墓があります。また、与三郎の相棒の「蝙蝠安」も実在の人物だそうです。美声の持ち主で常磐津を得意としていたそうです。ただ頬に蝙蝠の入れ墨はなく太ももにカニの入れ墨をしていたそうです。

大観音寺(おおかんのんじ)

鉄製の巨大な観音様の頭部(170㎝)が祀られているのですが、残念な普段は開帳されていない(11日と17日が縁日)。
ただお前立の観音様も立派ですし「韋駄天」、「馬頭観音」も祀られているのでお参りしましょう。

大観音寺:鉄造菩薩頭の説明
韋駄天尊

人形町のからくり(やぐら)(町火消しと江戸落語)

春のからくり櫓(ご参考)

江戸の情緒と風情を残している人形町のシンボルとして建てられたからくり櫓で、「町火消し」と「江戸落語」の二つの櫓があります。
町火消しは人形が梯子乗り、纒あげを披露し、江戸落語は噺家の人形が登場して人形町の由来を話すのですが、午前11時から19時までの正時の起動なので運が良ければからくりを見ることが出ますが、今回はどうでしょうか。

西郷隆盛屋敷跡・谷崎潤一郎生誕地

 西郷隆盛の屋敷跡は江戸末期姫路の殿様酒井氏の屋敷があった場所で、西郷が征韓論で下野するまでの2年間住んでいたとのことです。
広い屋敷の一部しか使っていなかったそうです。なお現在は幼稚園の建物が建っているのですが、この建物がすごいです(見てのお楽しみ)。

谷崎潤一郎生誕地は割烹「人形町谷崎」のビルになっており、このビルの壁に説明板があります。


鯨の石像(鯨と海と人形町)

 人形町には人形浄瑠璃の小屋が多く集まっていたが、この人形の首を精妙に動かすには鯨のヒゲがないとできなかったことから、鯨のオブジェが街角に造られています。


 蛎殻銀座跡

銀座は銀の地金の購入と銀貨を製造する役所ですが「銀座」というと現在の中央区銀座を思い浮かべますが、実は寛政12年(1800年)に銀座に不正があり寛政の改革の一環として銀座はいったん廃止され、改めて蛎殻町に銀座が再発足され明治になるまで蛎殻町にあったとのことです。
銀座は現在の銀座2丁目に約190年、蛎殻町に約70年あったことになります。甘酒横丁入口交差点付近に説明板が建てられています。

甘酒横丁

人形町通りから明治座方向に浜町緑道までの約250m.が甘酒横丁です。
明治時代はもう少し南に寄ったところにあり道幅も狭い小路だったが関東大震災後の区画整理によって現在のようになったが名称はそのまま呼び継がれてきています。
甘酒横丁の名前の由来は明治時代に現在の甘酒横丁の入り口あたりに尾張屋という甘酒屋があったことからその小路を甘酒横丁と呼ばれるようになったとのことです。
当時も人形町にあった寄席や明治座の芝居帰りの見物客で賑わっていたそうです。

勧進帳の弁慶の像
 なお、人形町界隈には、かつて中村座や市村座が所在し江戸歌舞伎の発祥の地の一つとされていることから甘酒横町と浜町緑道が交差するところに勧進帳の弁慶の像が建てられていますので見てきましょう。

 

【右の案内より】

弁慶像について
今を遡ること三五〇年前、現在の人形町あたりに葺屋町と堺町という街があった。
当時はこの街では、江戸三座といわれていた芝居小屋のうちの市村座と中村座の二座が歌舞伎を上演しており芝居街と呼ばれていた。
また、浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数軒あり、歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。
ここで使われた人形の製作と、修理に当たった人形師達はこの周辺に住み人形細工と人形の販売を業としていた。
以上が人形町の名のいわれとされており、ここ人形町界隈は、今日隆盛をきわめる江戸歌舞伎発祥の地と呼んで差し仕えないといえる。
この度、緑道の改修に当たって、入り口の広場に歌舞伎十八番の内でも人気のある勧進帳の武蔵坊弁慶像を設置するとともに、その背面に関所風の冠木門を設けて江戸情緒をかもしだし、往事をしのばんとするものである。

中央区土木部公園緑地課

久し振りの散策も、この弁慶の像前で現地解散となりました。各自、三々五々甘酒横丁で夕べの買い物などしてから帰宅の途につきました。