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2019年8月18日日曜日

寄稿【半蔵門と服部半蔵】

           半蔵門と服部半蔵

現在の正門(渡櫓門)

宮城には色々な門があるが、そもそも江戸城には門が幾つあったのだろうか?と思い、調べてみると、本丸・二の丸・三の丸・西の丸という中心部に入る門を除いた外曲輪門・内曲輪門は28(虎の門・赤坂門などの外曲輪は13、竹橋門・桜田門などの内曲輪門は15)の門があったとのことです。


大手門
これらの門の名前を見てみると、土地の名前(神田門・日比谷門など)、役割の名前(鍛冶門・呉服門など)が基本で、例外的に徳川家を防御する御三卿の姓(一橋門・清水門・田安門)が付けられているものがありますが、唯一例外的に名前(姓ではなく)がついているものがありそれが半蔵門です。この半蔵門は他の門がいずれも橋を渡って通るのに対して唯一地続きで橋が無いとのことです。
江戸城の正面の門は大手門であり、諸大名等はこの門から入城する(重要な門なので10万石の大名が警護していたそうです)が、半蔵門は搦手門になり、大名の登城などには使われません。

また幕府の万一の場合に将軍を天領である甲斐へ安全に避難させる甲州街道に直接つながっています。従って甲州街道は直轄地や寺社領が多く外様大名もいないようです。また、参勤交代時にも限られた藩(信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の三藩)以外は甲州街道の使用が禁止されていたため、他藩は遠回りして中山道を使うことになっていたようです。
半蔵門

このような特殊な門である半蔵門の名前の由来ですが、定説は家康が本能寺の変の時、江戸に逃げる途中の伊賀越えを行ったとき、家康を助けた服部半蔵がこの門の警護に当たり、その部下(与力30騎、伊賀同心200名)と共に組屋敷を構えていたことに由来するという説ですが、別説では、山王祭の山車として造られた象の像が大きすぎて門を半分しか入らなかったことに由来するというものでした(山王祭は江戸三大祭―日枝神社、神田明神、深川八幡宮の例祭―の一つで三代将軍家光以降将軍上覧の天下祭となったとのことです。)。

江戸時代に半蔵門の利用が限られていた名残でしょうか、現在も半蔵門を利用するのは原則として天皇と内廷皇族(皇后、皇太子一家)に限られているようです(皇太子のお子様に男子がいないためでしょうか秋篠宮家は例外的に利用しているとのことです。)。
寺の床の間に飾られた半蔵の槍
服部家は戦国時代から徳川時代にかけて活躍し、代々「半蔵」を通称として名乗っているとのことです。
半蔵の墓
一般に伊賀忍者の支配者として知られているのは二代目の服部半蔵正成ですが、半蔵自身は忍者ではなく鬼の半蔵とか槍の半蔵と呼ばれ甲冑を着て一番乗り・一番槍を重視する武功第一の武士であるとのことです。なお半蔵は家康の嫡男信康(岡崎三郎信康、信長の娘を 嫁にしていたが武田勝頼に通じているとの謀反を疑われ自刃に追いやられた。)の守役を務めており信康の自刃の折に介錯を命じられたが「三代相恩の主に刃は向けられない」として介錯できなかったそうです。

信康の供養塔
半蔵は信康の菩提を弔うために浄土宗の安養院を創建し、信康の供養塔が建てられているが、後に西念寺となり半蔵自身も葬られています。西念寺の山号・寺号は専称山安養院西念寺といい半蔵の法号専称院殿安誉西念大居士に由来するようです。この西念寺は現在新宿区若葉町2丁目9番というJR四ツ谷駅から甲州街道を少し新宿に向かった所にありますから、今も半蔵門を警護しているのかもしれませんね。



                          【寄稿】 梅川芳宏(S37法)