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2018年10月17日水曜日

散策の会 門前仲町〜富岡八幡宮 下町情緒を楽しむ 結果報告

平成30年10月10日(水) 秋らしい穏やかな天気のもと10名参加で実施されました。

*渋沢栄一邸宅跡(江東区永代2-37
澁澤倉庫発祥の地
明治9年(1876)此処に屋敷を購入し修繕して本邸としていたが、後に本邸を兜町へ移転し、ここを別邸として使っていた。此処には今でも澁澤倉庫本社など渋沢関連の会社があります。


*佐久間象山砲術塾跡(江東区永代1-15-2
佐久間象山松代藩士で大砲の鋳造に成功し、西洋砲術家として名を轟かせていた。また蘭学を背景にガラスの製造なども行っていたとのことです。
佐久間象山砲術塾跡
当初は神田お玉が池で私塾「象山書院」を開き儒学を教えていたがアヘン戦争など海外情勢を研究し海防八策を上書し、同時に蘭学習得の必要性に目覚めオランダ語、自然科学書、医書、兵書などの精通に努め(きっかけは松代藩主真田幸貫が老中兼務で海防掛に任じられ象山が顧問に抜擢されたためとのこと。)木挽町に五月塾を開き砲術を教えた。
此処には勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬、河井継之助、橋本左内などが入門した。因みに象山の妻は勝海舟の実妹順子である。

吉田松陰がペリー艦隊で密航を企て失敗する事件が起き、相談を受けていた象山も連座して伝馬町の牢屋敷に入獄、その後松代で蟄居させられたが元治元年(1864)一橋慶喜に招かれ上洛、公武合体と開国を説いたが河上彦斎(熊本藩士・勤皇攘夷派、幕末の四大人斬りの一人)等の手にかかって暗殺された。

*赤穂義士休息の地」碑(江東区佐賀1-7-1
赤穂浪士休息の地
赤穂浪士の一人、大高源吾(源五)は俳人で、宝井其角とも交流があった(碑には其角の門人とあるようですが)。討入りの前日に両国橋の上で両人が出会い、「年の瀬や水の流れも人の身も」と前句をすると源吾が「あした待たるる宝船」と返したという話(この句ではないという説もある)は歌舞伎・講談・浪花節などで有名です。
その宝井其角の門人で源吾とも交流のあった「ちくま(乳熊)味噌の竹口作兵衛」が討入りから引上げてくる浪士を自分の店に招き入れ甘酒をふるまったそうで、その休息の場の跡ということのようです。

なお両国橋の東側のたもとに源吾の「日の恩やたちまち砕く厚氷」という句碑があるようです、これに対する其角の返句は「月雪の中や命の捨てどころ」というものだそうです。

*紀文稲荷神社(江東区永代1-14
紀文稲荷にて
紀伊国屋文左衛門が京都伏見稲荷より勧請した神社。紀伊国屋文左衛門は5代将軍綱吉の側用人柳沢吉保と組んで紀州からミカンを江戸に運び、明暦の大火に際しては木曽の木材を買い占めるなどして豪商となった。この紀文の店が八丁堀にあり、この一帯は運河が縦横に走り紀文も船蔵を持っていて航海の安全と商売繁盛を祈って稲荷を祀った。境内にある大石は、この付近にあった米問屋、肥料問屋等で働く力自慢が自分の名前を彫って自分が差し上げた大石を記念にしたもの。なお、稲荷神社の鳥居は「赤(朱)」だが、ここの鳥居は紀文らしくオレンジ(みかん)色をしているのが面白い。

*深川えんま堂(賢台山法乗院賢法寺 真言宗豊山派 江東区深川2-16-3
江戸三大閻魔の一つと云われている(三大閻魔には幾つか説があるようです。新宿太宗寺、西巣鴨善養寺、阿佐ヶ谷華徳院を三閻魔とする説が有力のようにも書かれていますが。)。
深川えんま堂
ここの閻魔大王は高さ3.5m、幅4.5m、重量1.5tと大きなものです。19ある祈願のスポットにお賽銭を入れると色々な説法が堂内に流れるシステムになっており近代的(IC)な御宣託のようです。
冥途では死後の人々は閻魔大王を中心とする十人の王によって裁きを受ける。十人の王は、本来は菩薩だが裁きの間は柔和な姿を隠し憤怒の身を現し三周忌に至るまで罪業を考査して未来の生まれ変わるところを定めるといいます。
伊能忠敬の住居跡
境内には曽我五郎の足跡石(日本三大仇討の一つである源頼朝の富士の巻狩りの際に起こった仇討事件の主人公の一人である曽我五郎が父の敵を討ち老母を背負い老父の墓に仇討の報告をしたときに残されたという言い伝えがあるとのことです。なお歌舞伎十八番の花川戸の助六は曽我五郎が侠客なって源氏の宝刀友切丸を探すという設定になっています。)があります。なお近くに伊能忠敬の住居跡があります。



黒船稲荷神社


*黒船稲荷神社(江東区牡丹1-12-9)
応徳3年(1080年)浅草黒船町(現在の蔵前)に創建され、現在地には享保17年(1733年)に遷座した。この境内には、東海道四谷怪談(主人公のお岩さんのお墓は西巣鴨の妙行寺にあります。)を書いた四世鶴屋南北の居宅があったとのことです。







*深川不動堂(成田山新勝寺の東京別院 江東区富岡1-17-13 真言宗智山派
深川不動堂
元禄年間に江戸町民に成田山の不動明王を江戸で参拝したいという気運が高まり元禄16年(1703)に開帳が深川永代寺で行われた。明治に入ると永代寺は廃寺(現在も参道に永代寺はあるが、このお寺は旧永代寺の別当だったお寺が名前を継いだものです)になるが明治2年に不動堂が認められ明治14年に本堂が落成した。震災・空襲で二度焼失したが再建されている。明治31年に日清戦争勝利を記念して大きな石造りの燈明台が燈明講によって奉納され、その台石の右正面に第九世市川團十郎の名前が刻まれているとのことです。
当日は、僧侶による45分間の不動堂内無料案内も経験できました。

*富岡八幡宮(江東区富岡1-20-3

富岡八幡宮にて記念撮影後、解散
深川の八幡さまと親しまれている。寛永4年、当時永代島と呼ばれていた現在地に信託に基づいて創建された。応神天皇を祭神としている。深川八幡祭りは江戸三大祭(神田明神、山王祭、深川祭)の一つである。江戸勧進相撲発祥の神社であり境内には横綱力士碑など大相撲所縁の石碑が多数あります、また相撲関連だけではなく伊能忠敬の像(測量に出かけるときは安全祈願のため必ず参拝に来たとのことです。)、木場の角乗碑などもあります。

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