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2019年5月26日日曜日

【寄稿】招き猫発祥の地を訪ねて



招き猫発祥の地を訪ねてみました。

洋の東西を問わず雄の三毛猫は幸運を呼ぶといわれているようですが、巷では右手を挙げていれば金運を、左手をあげていれば人を招くと云われる招き猫があちこちの店舗に氾濫しています。
招き猫の色は白が一般的のように思われますが、赤・黒・青・ピンク・金などの色もあるようです。赤は病除け、黒は厄除け、青は交通安全や学業向上、ピンクは恋愛、金はお金ということだと聞いています。
また挙げている手の高さは高ければ高いほど遠くの幸運や客を招くようですし、右手を
挙げているのは雄猫、左手を挙げているのは雌猫とのことですが---。

ところで、招き猫というのは、どのような理由で云われているのでしょうか?
かねてから疑問に思っていたのでウィキペディアなどで調べてみると、東京に三つも発祥の地
があることが分かりましたので訪ねてみました。

大谿山豪徳寺(曹洞宗 世田谷区豪徳寺二丁目24-7)彦根藩井伊家の菩提寺

松並木が美しい豪徳寺参道
 本寺付近は世田谷城主吉良氏が居館としており、1480年
(文明12年)に吉良頼高の娘である弘徳院のために「弘
徳院」と称する庵を結んだのが本寺の始まりだそうです。






招き猫との由来は、江戸の初期彦根藩主井伊直孝が鷹狩の帰りに近くを通りかかる
桜田門外の変で有名な井伊直弼の墓
と寺の飼い猫が手招きするので寺で休むことにしたが、寺に入った途端に空が曇り激しい雷雨となった。直孝は縁起がいい、濡れずに済んだということで、これを縁にこの寺を井伊家の菩提寺にした。直孝の没後直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」に因んで寺号を豪徳寺に改め「招猫観音」が祀られ招き猫伝承も広まったとのことです。また、直孝が寺の木の下で雨宿りをしていたら一匹の猫が手招きしたので近づいてみると先程雨宿りをしていた木に落雷がありこれを避けられたという別説もあるようです。



奉納されている招き猫
数えきれない程の招き猫が奉納されている豪徳寺の猫(招福猫児「まねぎねこ」)は右手を挙げているが左手に小判はない。これは武家所縁の招き猫なので金銭への執着を避けたとか、もともと招き猫は機会を与えてくれるが結果(=小判)までついてこない、機会を生かせるか否かは本人次第などの解釈があるようです。なお、彦根市の「ゆるキャラ:彦にゃん」はこの豪徳寺の猫がモデルとのことです。


今戸神社(台東区今戸一丁目5-22)浅草七福神の一つ・福禄寿

江戸時代に、この神社の界隈に住んでいた老婆が猫を飼い
拝殿に飾られた手の長い招き猫
可愛がっていたが、 貧しさのため飼い猫を手放すことになった。するとその猫が夢枕に現れ、自分の姿を人形にしたら福運を授かるというので、地元の今戸焼で猫の人形を作り浅草神社の境内で売ったところ大評判になりお金持ちになったという伝説があり今戸焼発祥の地とされる今戸神社招き猫のルーツということのようです。



なお、今戸神社には伊弉諾尊と伊邪那美尊の夫婦が祀られていることから縁結びの神社としても有名で、いつも若い女性が多くお詣りに来ています。また、この神社は、新選組の沖田総司の終焉の地としても有名です。主治医の松本良順の所で治療をしていたが薩長軍の江戸入りで危険になり総司を含めて患者を今戸神社に移したそうです。なお境内にある「石撫で猫」を撫でた後に携帯の待ち受け画面にして毎日祈ると願い事が叶うとのことです。


石撫で猫
今戸焼き発祥地・沖田総司終焉地の碑

西光山自性院無量寺(真言宗豊山派 新宿区西落合一丁目11-23)


弘法大師が日光山に参詣の途中で観音様を供養したのが自性院の草創のようです。
拝殿内の招き猫及び観音像

招き猫の由来は室町時代まで遡るようで、太田道灌が地元の豪族豊島氏と戦った「江古田・沼袋原の戦い(1477年-文明9年-)」において劣勢となり道にも迷ったとき、一匹の猫が現れ自性院に案内してくれた。これを機に戦いを有利に盛り返し危機を救われた道灌が猫の死後に猫地蔵を奉納した。


これがきっかけになり自性院が招き猫の寺として有名になったとのことです。
また、江戸中期に豪商が子供を亡くし、その冥福を祈るために猫地蔵を奉納したことが起源だとする別説もあるようです。

猫地蔵の碑
参道入り口の招き猫

なお、自性院の参道入口の門柱の上に大きな招き猫の石像が置かれています。招く手は左手で右手に小判を握っています。毎年節分の日に猫地蔵(秘仏)が開帳される猫地蔵祭があります。

                                     【寄稿】 梅川芳宏(S37法)

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