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2015年6月27日土曜日

江戸散歩 -「八百屋お七」伝説巡り

JR中央線には、高円寺、吉祥寺、国分寺と「寺」がつく駅が三つある。
高円寺と国分寺には、実際にその名前がついたお寺が在るが武蔵野市最大の街である吉祥寺には、その名前のついたお寺はない。

吉祥寺山門栴檀院の額がかかっている
では、なぜ吉祥寺なのか。由来を調べてみると、「江戸三大火災の筆頭である振袖火事(1657年、明暦3年)によって、江戸本郷元町(現在の水道橋近辺)にあった曹洞宗「諏訪山吉祥寺」の門前町が焼失、幕府は該地を大名屋敷にし、門前町の住民を五日市街道添いに移住させて新田開墾に当たらせた。吉祥寺に愛着を持っていた住民は開墾した新田に吉祥寺村と名前をつけた」というのが武蔵野市の吉祥寺の由来である。一方「諏訪山吉祥寺」の方は、振袖火事の翌年(明暦4年)に発生した火災で焼失し、現在地の駒込(文京区本駒込3丁目)に移転している。


このお寺は井原西鶴の好色一代女による「八百屋お七」でも有名だが、もともと七堂伽藍を具えた大学寮であっただけに、このような広大な敷地を都心に持つ寺院があったかと驚くほどの大寺院で江戸時代には昌平坂学問所と並ぶ漢学の学問所でもあった。当時の学寮である栴檀院(せんだんいん)は現在の駒沢大学の前身とのことである


二宮尊徳の墓碑

境内には二宮尊徳の墓碑、榎本武揚や水野忠邦が実施した天保の改革時の南町奉行で甲斐守でもあり、‘妖怪(耀甲斐)’と悪評の高い鳥居耀蔵(当時の北町奉行はTVでお馴染みの遠山金四郎で、後に南町奉行となる)、日本の造船の父と呼ばれる赤松則良(娘が森鴎外の妻、後に離婚)の墓や順天堂大学・日本医科大学による供養碑もある。


「八百屋お七」の話にはいろいろな説があるが、スタンダードな説によれば、大店の八百屋が火事で焼け出され、吉祥寺に避難した折に娘のお七が寺小姓の吉三郎と恋仲になり、自宅に戻っても吉三郎に会いたい一心で、火事になればまた逢えるのではないかと自宅に放火し火炙りの刑に処せられたというものである(円乗寺に文京区が建てた立て札が2本あるが、面白いことに、それぞれ異なった説が書かれている)。


お七、吉三郎の比翼塚

吉祥寺には、お七・吉三郎の比翼塚があり、また近隣には、お七に縁のある寺院として円乗寺(文京区白山1346)と大円寺(文京区向丘1113)がある。また目黒の行人坂にも縁のある大円寺(目黒区下目黒185)がある。

八百屋お七の3基の墓


円乗寺には住職がお七の菩提を弔って立てたお墓を真ん中に歌舞伎の初代岩井半四郎が建立したお墓と円乗寺近隣の人々が建てた三基のお墓が並んでいる。





大円寺(文京区)には、お七の罪業を救うために熱した焙烙(ほうろく)(素焼きの浅い土鍋)を頭にかぶり自ら灼熱の苦しみを受けたお地蔵様(頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気に霊験あらたかなお地蔵様として有名)られている。また幕末砲術家の高島秋帆や小説家であり樋口一葉を終生助けた斉藤緑雨の墓がある

大円寺の焙烙地蔵
目黒行人坂の大円寺には、吉三郎が建立した「お七地蔵尊」がある。吉三郎はお七の処刑後、僧(西運)となり諸国を行脚し、大円寺の下にある明王院(現在の雅叙園の場所)に入ってお七の菩提を弔うため往復10里の道を浅草観音まで夜から明け方にかけて鉦をたたき念仏を唱え隔夜日参り、1万日の行を275ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏したことを告げたのでお七地蔵尊を造ったといわれている。なお、雅叙園の入り口には西運が体を清めた井戸があり、雅叙園脇の目黒川にかかる太鼓橋は西運が、そもそも架けたものと聞いている。


 西運が身体を清めたお七の井戸
なお、お七は鈴ヶ森の刑場(現在の品川区南大井---京浜急行 の大森海岸駅近く)で処刑されたので、近くの密厳院(八幡山密厳院祈念寺)には、お七の3回忌の供養のために建立された2mを超える地蔵菩薩がある。

【文中の由来等はwikipedia、マイナビ、各ホームページ、現地の由緒書などを参考にしました。誤りがあった場合は筆者の責任です。】
寄稿者 : 梅川芳宏 (S37 法)



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