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2026年5月31日日曜日

「奥多摩むかし道を歩く その2」結果報告

           「奥多摩むかし道を歩くその2」結果報告

惣岳から奥多摩駅までを歩いた2026年4月22日(水)の「奥多摩むかし道を歩く その1」に引き続き、5月11日(月)には、奥多摩駅から「丹沢村役場行」のバスで奥多摩湖の一つ手前の「水根バス停」まで行き、そこから「梅久保バス停」までの約4.5㎞を参加者5人で歩きました。

  


  

歩きはじめの水根のバス停から、多摩川の支流の一つである「水根沢」の左岸に沿って進むと、流れの両岸を覆いつくす美しい新緑が目に飛び込んできます。森林浴とはこのことなのかと思うほど、どこを見ても辺り一面の鮮やかな 
      緑・みどり・緑。
              
  

木橋を渡り、急な階段を上って車道に戻りさらに進むと、いよいよ本格的な山道に入ります。未舗装の足元が悪い木立の中をしばらく行くと、急に道が極端に細くなります。互いに注意するよう皆で声を掛け合って慎重に歩を進めました。人一人がやっと通れるほどの細い道は落ち葉に覆われていて、歩き難いことしきり、うっかり足を滑らせたら急な斜面に滑落してしまいます。浅間神社を通り越し、コース一番の難所である西久保の切り返しを何とか無事に通過し、やっと一息。ゆっくり一歩一歩慎重に下ってきたので、ここまで2時間近くかかってしまいました。

険しい山道が終わり唐突に現れたアスファルトのヘアピンカーブ。その先の少し開けた場所に設けられたテーブルを囲んで、互いに無事難所を抜けられたことを褒めたたえると共に、何事もなかったことに安堵した気持ちを分かち合いながら(実は巷では、クマに襲われる不安も・・・)、お弁当を広げました。30分後、美味しいお弁当とおしゃべりにすっかり癒され、皆、元気を取り戻し、また歩きの再開です。

ここからは、前回と同じような比較的平坦な道を、遠くにそびえる新緑に覆われた山々を見ながら、進みました。


                 

 

         歩くと大きく揺れる超スリリングな「しだらく吊橋」に初参加のお二人が挑戦。

前回のスタート地点である「惣岳の不動尊」を通り越し、今回のゴール地点「梅久保のバス停」を目指して、あと一息です。

目印にしていた「いろは楓の巨木」がなぜか見当たらず、偶然、民家前で出会った地元の方に、民家横の細くて急な階段を昇れば「梅久保のバス停」に出られると聞き、その急な階段を間近に迫ったバスの発車時刻に間に合うよう、息を切らせて大急ぎで登ります。階段の上では、道路工事の真っ最中。誘導員の指示で道路を渡り、反対車線の「梅久保バス停」にぎりぎり辿り着きました。 間もなく目当てのバスが姿を現し、無事、乗り込むことに成功。 何とか、次のバスを待って一時間近く無駄にバス停に立ち尽くす必要から免れることができました。

バスが奥多摩駅に着くと、前回同様、奥多摩駅2階のカフェに即直行。みなの完歩を祝って、クラフトビールで乾杯し、皆の健闘ぶりを讃え合いました。

青梅線・中央線と乗り継いで帰り着いた吉祥寺で、また改めて、今回の歩きの反省会で大いに盛り上がりました。厳しいコースを無事歩き抜いた達成感は、皆かなりのものだったと。

本当に、誰一人脱落せず、怪我もなく、充実した楽しい気分で戻ってくることができ、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。安堵の気持ちも・・・いっぱいです。ご参加の皆さま、お疲れ様でした。そして、一緒に歩いて下さりありがとうございました。

次回は、夏の異常な暑さを避け、出来れば9月に、暑さが収まらないようであれば10月から、再開しようと考えています。どこか行ってみたい場所があれば、ぜひご提案ください。皆様のご意見お待ちしております。

2022年9月14日水曜日

散策の会:江戸散歩 札の辻・聖坂(晴れたら編)


       三田の台地には思いもよらぬものがありました


三田のキャンパスを訪ねてから札の辻方面に寄り道をしてみますと、近くには思ってもみない旧跡があり散歩を楽しむことができます。
(前回の「散策の会」の雨で中止した部分の散策予定地は晴れていたらこのようなところです。)

札の辻

旧幻の門前の1号線と田町駅前の15号線の交差する処で塾から500~600m程度です。江戸初期には高札場と芝口門が設けられており、高輪の大木戸が出来るまでは江戸正面入り口であった。特にこの芝口門は東側が直ぐ江戸湾に接していることから房総の山々も望むことが出来、一日眺めても飽きない景色ということで日暮御門とも呼ばれていたそうです。
現在も交差点に設置された歩道橋の上から眺めると二本の道路が交差する処はチョットだけニューヨークのタイムズスクエアを感じさせる眺めです(?)。ぜひ眺めてみてください!

元和キリシタン遺跡(東京都旧跡)

三代将軍家光が元和9年(1623年)にキリスト教徒50人を処刑した場所。刑執行後は空き地になっていたが後に智福寺が建てられ昭和41年(1966年)智福寺が練馬区に移転するまでは智福寺の境内だったそうです。
現在はビルの谷間の公園とか緑地帯といった感じになっています。なお、横にある巨石は高輪の大木戸の石垣に使われていたもののようです。



斎海寺(浄土宗 周光山長寿院斎海寺)

元和7年(1621年)に創建され越後長岡藩主牧野家や伊予松山藩主松平家の江戸菩提寺で安政6年(1859年)にフランス領事館となり2年後に最初の公使館となって明治7年(1874年)まで続いたそうです。本堂のあたりに領事館の建物があったようです。
なお、このお寺は更級日記に出てくる竹芝伝説(皇女と武蔵国の武士との恋愛物語, 追記参照)の竹芝寺の跡地に建っているとのことです。




亀塚

上野国沼田城主土岐氏が下屋敷の敷地として拝領した場所で古墳らしい塚があります。
この地が更級日記に出てくる竹芝寺の故地であることや塚の頭頂部に酒壺があり、ここに出入りする亀を神と崇めていたが一夜の風雨で酒壺の亀が石になったという伝説に興味を持った土岐氏がその由来を伝える碑を建てた(亀山碑)。
亀塚の頂上にこの碑が残っています。
大名が邸内に建てた石碑として貴重なものだそうです。





華頂宮(侯爵)家跡

伏見宮の子孫が臣籍降下して華頂宮(侯爵)家が創設された。現在三田台公園になっており伊皿子貝塚や華頂宮家の井戸がある。この場の貝塚は厚さが1m近くあり相当多くの人が石器時代からここに住んでいたのだろうと想像できます。

        
            




亀塚稲荷(亀塚と対になる旧跡だとおもいます。)

聖坂にある小さな神社で明治期までは功運寺の境内社だったが功運寺の東中野移転の際に当地に残った。
ご神体は亀の形をした霊石だそうです。その昔、この辺りに出没する亀が一夜にして石と化したことから里人がこの亀の霊を祀り、祠を設けた。後に太田道灌がこの地に物見台(燈台)を置くにあたりこの祠を守護神として社を創建しご神体をこの霊亀としたと伝えられているとのことです。




境内には「弥陀種子板碑」5基がある。中世の関東地方に多く見られる阿弥陀信仰に基づく供養塔で、秩父青石(緑泥片岩)で出来ている。年紀名が確認できる港区指定有形文化財3基と風化して年紀名が解読不能の2基(港区登録有形文化財)で、新田義貞一族(後醍醐天皇の建武新政樹立の立役者の一人で、後に足利尊氏が叛旗を翻すと南朝の総大将として戦い戦死した。)の霊を弔うための碑とのことのようです。
(東中野の功運寺は忠臣蔵の吉良家の墓や討ち入り時に死んだ吉良家の家臣の碑や浮世絵の歌川豊国、作家の林芙美子、旗本奴の水野成之などの墓がある大きなお寺です。)

港区立郷土史歴史館(白金台、東大病院隣)

関東大震災の後、ロックフェラー財団の支援・寄付を受けて昭和13年に公衆衛生院(国民の保健衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及活動を目的とした国の機関)として建てられたゴシック調の建物で、設計者は東京大学建築学科教授で安田講堂などを設計した内田祥三(うちだよしかず)で東大の安田講堂にも雰囲気が似ています。

現在は港区立郷土史歴史館となっています。建物自体としても大変価値のある建物ですが、常設展示室として三つのテーマで展示されています。

  ① 港区の歴史を環境・貝塚・内湾漁業のテーマで紹介する「海とひととのダイナミズム」
  ② 江戸の城南に位置する港区を、まちづくり・武家地・寺社地・町人地と人々の姿を紹
       介する「都市と文化のひろがり」
  ③ 港区の近現代の歴史を、国際化・教育・交通・運輸・産業・災害・戦争などの視点で
       紹介する「ひとの移動とくらし」

展示されているものを見ていくと伊皿子貝塚遺跡の発掘調査の報告として貝塚の状況や発掘した土器などや安政5年にアメリカなどと結んだ条約、イギリス公使館であった高輪の東禅寺が勤王佐幕の浪士が襲った時の状況、福澤先生が著した西洋事情・慶應義塾の設立の目的及び塾生の身分証や学生証なども展示されています。
結構見応えがありますので機会があれば是非見学してみてください、お薦めです。

東禅寺襲撃時の状況
伊皿子貝塚遺跡
(最大 1.8mの厚さ)
各国との条約・税制

福澤先生の西洋事情
慶應義塾大学昭和初期
の身分証・学生証
慶應義塾の目的

 

追記

(竹芝伝説とは)

更級日記の筆者(菅原孝標女)が、父親が赴任地上総の国府から京へ帰任する旅に随行して武蔵野国に入ったところ竹芝という寺があり、その寺の起源を村の古老に聞くと以下のような恋愛物語の伝説がその寺の起源であった。

「この寺のある地帯は古くから「たけしば」と呼ばれた坂で、ここに住んでいた青年が京で、夜の間中火を燃やし宮中、后宮、東宮を警護する衛士の任についていた。青年が警護中に自分の生まれ故郷の武蔵野国の風景を懐かしみ早く帰りたいと独り言を呟いていたところ、その独り言を聞いた帝が可愛がっていた姫が青年に自分を拐って男の故郷に連れていき生国の風景を見せろと命じた。青年は姫を背負って武蔵野国へ僅か七日七夜で到着した。
一方宮廷は姫がいないので大混乱になり武蔵野国へ使者を追いかけさせた。使者は三か月もかかってようやく青年の処についたが、姫は、「宮廷には戻らない、青年とここで暮らすのが宿命であり後悔もしていない、彼も武蔵野国の人も咎めないでほしい、使者は早く帰って帝にその旨を奏上せよ」と命じた。使者が帰って報告すると帝は「しかたがない、竹芝の男に武蔵野国を預け与え納税の義務も免除し、その領土は姫に任せる」ということになった。青年は内裏のような家を造り姫と住み子宝にも恵まれた。やがて青年や姫も亡くなり屋敷はお寺になった。そのお寺がこの竹芝寺である。」


寄稿:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)            



2022年6月21日火曜日

散策の会 梅川会員からの寄稿:旧新橋停車場と高輪をぶらり

旧新橋停車場と高輪をぶらり

――高輪には風変わりな妖怪もいました――

 先日日本最初の鉄道駅である旧新橋停車場を見物しながら少し足を延ばして高輪をぶらりと歩いてみようと出かけました。高輪というと忠臣蔵で有名な泉岳寺や大石良雄外十六忠烈の跡が真っ先に浮かびますが、敢えて忠臣蔵関係を外して回ってみることにしましたが、高輪は急な坂の多いところでした。


 旧新橋駅(新橋停車場跡)

今年は日本に鉄道が初めて走ってから150
プラットホーム
年目だそうです。鉄道は明治
2
鉄道の始点を示す零表示
年に東京と京都を結ぶ幹線と
と東京・横浜間、京都・神戸間及び琵琶湖畔・敦賀の三支線を建設する政府決定がなされ明治5年に新橋・横浜間が開通したが、資金・資財・技術者を英国に一任して着手したものでした。ただ、計画の主体性はあくまで日本政府の手にとどめていたそうです。
線路の形が上下同じ形なのは
摩耗したら上下を入れ替えて
再利用するためです。



当時は沿線住民の反対や陸路の輸送の主体であった馬子・車曳・地方の郡部の妨害も強かったようです。

田町・品川間も軍部が反対した結果、陸路を通れず海上に堤を造って(築堤)通すことにしたそうです。高輪ゲートウエイ駅周辺の開発時に、この築堤の一部が発見され後世に残すことになったが現在は工事中なので見ることが出来ません。

高輪大木戸跡(港区高輪2-19)

東海道から江戸府内への出入口(まさに江戸のゲートウエイですね)として設けられた大木戸の跡。大木戸は明け六つに開かれ暮れ六つに閉じられ治安の維持及び交通規制の役割をはたしていた。伊能忠敬はここを全国測量の起点としたとのことです。江戸には四谷の大木戸などもありましたが現存しているのはこの高輪の大木戸だけのようで国の史跡に指定されています。


  
高輪海岸の石垣石(港区高輪2-13-8)

港区教育委員会の解説を見るとこの石垣は江戸時代に高輪海岸(現在の第一京浜道路が海
正面2段の石垣
岸線になっていたようです)に沿って作られた石垣に用いられたもので平成7年(1995年)に高輪2丁目20番地の建設用地内の遺跡の発掘調査で出土したものだそうです。
発掘調査では3段の石積みが確認されたが、最上段は江戸終期に積み直されたものとのことです。なお3段目から下のものはそのまま現場保存とのことですが現場は現在工事中の場所なので見ることはできませんでした。

東禅寺(臨済宗;海上禅林佛日山東禅興聖禅林寺;港区高輪3-16-16)

慶長14年(1609年)に現在の港区赤坂に創建され、寛永13年(1636年)に現在地に移転したそうです。当時、寺の前が東京湾に面していたことから海上禅林と呼ばれ多くの大名家も檀家になっていたとのことです。江戸末期には西洋人の宿舎に当てられており安政6年(1859年)には日本最初のイギリス公使館(公使ラザフォード・オールコック)が置かれました。このため攘夷派に狙われ安政7年(1860年)に公使付き通訳(日本人)が門前で殺害され、翌年の1861年(文久元年)には水戸藩浪士の襲撃(第一次東禅寺事件)をうけ書記官などが負傷、翌々年の文久2年にも襲撃(第二次東禅寺事件)を受けイギリス水兵2名が殺害されています。また、幕命とはいえ異国人を住まわせたということで“穢れた寺”と非難され有力な檀家が多く離れたこともあったようです。

このお寺の境内には公使館として使われた建物や立派な庭園があり2010年に国の指定史跡になっていますが残念なことに境内は完全非公開ということで見ることはできませんでした。

 

承教寺(日蓮宗;長祐山承教寺;港区高輪2-8-2)

正安元年(1299年)に現在の港区虎ノ門に創建され江戸時代初期の承応2年(1653年)に現地に移転したとのことです。このお寺の住職から3人の大本山池上本門寺貫主を出している名門寺院でした。

妖怪「狛件(こまくだん)」
このお寺の場所辺りは、以前は「二本榎」と呼ばれていました。この地名の由来は江戸時代に東海道の品川宿の手前にある丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいて、そこに二本の榎の大木があり旅人の目印になっていたため、この地を「二本榎」と呼ぶようになったが戦後の地番変更で「高輪」になったとのことです。今も門前にこの二本の榎木(何代目かは分かりません)があります。また、山門の前に狛犬風の像(神社ではないので狛犬の筈がないのですが)があります。これは「狛件(こまくだん)」という牛から生まれ人間の言葉を話し、生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶、流行り病、旱魃、戦争などの予言を発し、その予言は必ず当たるという妖怪だそうです。

英一蝶の墓
現在も居たらコロナがいつ止むか、ロシアとウクライナの戦闘がいつ止むかなど聞きたいですね。
なお、境内には、芭蕉や宝井其角等と交友関係にあった江戸中期の画家「英一蝶」の墓があり東京都の旧跡指定を受けています。英一蝶は伊勢亀山藩の侍医の家に生まれ狩野派の勉強もしていますが、為政者の徳川綱吉・柳澤吉保を風刺したとかで生類憐みの令違反で島流しにあったこともあるようです(島流しの経緯については釣りをしたためなど諸説があるようです。)。

高輪皇族邸(港区高輪1-14-1)

元々は熊本藩細川家の下屋敷跡の一部で旧高松宮邸として使用されていた(大正時代に昭和天皇の皇太子時代に一時期住んでいたこともあるようです。)。戦後は貿易庁の迎賓館とし
美智子上皇后様お手植えの薔薇
(プリンセス・ミチコ)四季咲きの薔薇
て使われていたこともあったようです。2005年以降は無人のままでしたが2019年平成天皇が退位し上皇になったことから仮の仙洞御所になった。
今年4月26日に改修が終わった旧赤坂御所(仙洞御所)に上皇ご夫妻は移られています。
なお、門の脇に上皇后が植えられた薔薇(プリンセス・ミチコ;四季咲きのオレンジ色の薔薇)があります。


旧新橋停車場にある鉄道博物館


  

寄稿:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)


2022年4月13日水曜日

【世田谷区北烏山寺町通りを歩いてみました】

世田谷区北烏山寺町通りを歩いてみました


不許葷酒入山門と戒壇石を建ててお酒や臭いの強いものを境内に入れることを禁じているお寺は多いけど蕎麦を境内入れないとするお寺があると聞いたので、珍しく思い調べてみると世田谷の北烏山に「寺町通り」と云う通りがあり、そこにあるお寺だと分かりました。

お寺が集まっているところを寺町というのはよく聞きますが「通り」の名前にまで「寺町」が入るのは京都ならいざ知らず東京では珍しいこともあって少し歩いてみようと思い先日出かけてみました。

北烏山の寺町通りは井の頭線の久我山駅と京王線の千歳烏山駅のほぼ中間地にある北烏山2丁目から6丁目までの1.5㎞程度の距離に26の寺院が軒を連ねている通りです。この寺町が出来上がったのは関東大震災(大正12年:1923年)の後に浅草・築地・本所・荒川など都心から移転してきた寺院が集まったことが始まりとのことで、この「通り」のあたりは小京都などとも云われているらしいです。なお、この通りの南の端は中央高速道路の処で、そこに寺町通り区民集会所があり寺町の歴史や26の寺院などについて紹介するマップなどがありました。


寺町の特徴的な寺院を幾つかご紹介してみたいと思います。


◆一心山称往院(浄土宗)

慶長元年(1596年)に開山。もともとは湯島に創建されたが明暦の大火で浅草に移転、関東大震災で罹災し現地に移転した。俳諧人の宝井其角の墓があります。

境内に「不許蕎麦地中製之而乱当院之清規故入境内」と刻まれた石碑が建っており、「蕎麦禁制の碑」と呼ばれています。これには以下の由来があります。かつて浅草時代の称往院の境内に道光庵という塔頭があり、道光庵の庵主は信濃の出身で蕎麦打ちの名人と評判だった。当初は檀家にふるまっていたが美味しいと評判になり蕎麦を目当ての人で賑わうようになった。しだいに人が集まりすぎるようになり本来の寺の活動に支障をきたすようになったため住職が蕎麦の提供を禁止し、その旨の石碑を建て蕎麦を締め出したとのことです。

現在蕎麦屋の屋号に「○○庵」とあるのは、この道光庵の蕎麦の故事の名残だそうです。

宝井其角の逸話としては、赤穂浪士の討ち入り前夜に其角が四十七士の一人大高源吾と両国橋で会い煤払いの笹売りに身をやつした姿を憐れむと同時に風流の心を失っていないかと思い「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ、これに対して源吾は「あしたまたるる宝船」と返して討ち入りをほのめかしたというものがあり、歌舞伎の演目にもなっており両国橋のたもとには大高源吾の句を刻んだ碑が建っています。

 ◆瑞泉山高源院(臨済宗大徳寺派):

境内にある泉水(弁天池)が「烏山の鴨池」として「せたがや百景」に指定されています。この池は、品川から当地に移転した時に境内に泉水を掘ったところ水源を掘り当てたもので、地下では井の頭の池の水源と繫がっており井の頭池の水の増減がこの池の水位に反映するそうです。

また、このお寺は当初品川にあり東海寺(沢庵和尚が創建者)の塔頭で、筑後久留米藩有馬家の菩提寺であったことから板垣退助の一族の墓もあった。なお、移転した品川の跡地には品川神社が建てられているが、板垣退助の一族の墓だけは高源院の寺領として品川神社の裏手に残っています(板垣退助の50回忌を記念して顕彰会が建てた佐藤栄作揮毫の記念碑もあります。)。

◆霊照山蓮池院専光寺(浄土宗単立寺院):

江戸初期の慶長9年(1604年)に品川に創建されたが馬喰町の移転し明暦の大火に会い浅草に移転関東大震災で焼失し現地に移転と転々としたようです。
このお寺には東京都の旧跡指定を受けている北川歌麿のお墓がありました(浅草時代に北川家の菩提寺になったとのことです。)、なお、歌麿の子孫は絶えてしまっているとのことです。

◆妙祐山幸龍寺(法華宗):

創建は天正年間で当初は浜松にあり後に駿府に移り天正19年に江戸湯島に移築され徳川家の尊崇が篤かったとのことです。関東大震災に罹災し1927年に烏山に移転。境内に君が代に歌われている「さざれ石」があります。

 ◆春陽山永隆寺(法華宗):

徳川家康の囲碁の師であった利玄院日義上人が家康から神田に寺領拝領し創建したものとのことです。その後谷中、本所を経て現在地に移ってきており境内には人間国宝の三遊亭圓生の墓があります。また、家康の側室である養珠院殿お万の方(紀州徳川家および水戸徳川家の家租を産んでいるので水戸光圀や八代将軍吉宗の曾祖母にあたります)から寺宝の神保大黒天を拝領したとのことです。

 

◆常徳山玄照寺(法華宗):

慶長19年に芝白金に創建され昭和2年に当地に移転した。寺の縁起によれば豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に加藤清正に捕らえられ育てられた朝鮮の王子のうちの一人が創建したお寺とのことです。このお寺の枝垂れ桜が有名とのことで立ち寄りました。桜の木の上部が切り落とされていたのが少々残念ですが、なかなか美事でした。


◆本覚山妙寿寺(法華宗):

創建当時は谷中にあり寛文2年(1662年)に現在の江東区猿江に移転し関東大震災で当地に再移転した。寺町通りの寺院の中では最初に移転したお寺の一つとのことです。このお寺の梵鐘は1719年(享保4年)当時著名な鋳物師藤原正次(通称釜六)によって鋳造されたものとのことです。また客殿の建物は麻布狸穴にあった蓮池藩鍋島家の住宅を譲り受けたもので世田谷区の指定有形文化財とのことです。


【寄稿】(1962法)梅川芳宏