三田の台地には思いもよらぬものがありました
(前回の「散策の会」の雨で中止した部分の散策予定地は晴れていたらこのようなところです。)
札の辻
旧幻の門前の1号線と田町駅前の15号線の交差する処で塾から500~600m程度です。江戸初期には高札場と芝口門が設けられており、高輪の大木戸が出来るまでは江戸正面入り口であった。特にこの芝口門は東側が直ぐ江戸湾に接していることから房総の山々も望むことが出来、一日眺めても飽きない景色ということで日暮御門とも呼ばれていたそうです。
現在も交差点に設置された歩道橋の上から眺めると二本の道路が交差する処はチョットだけニューヨークのタイムズスクエアを感じさせる眺めです(?)。ぜひ眺めてみてください!
元和キリシタン遺跡(東京都旧跡)
三代将軍家光が元和9年(1623年)にキリスト教徒50人を処刑した場所。刑執行後は空き地になっていたが後に智福寺が建てられ昭和41年(1966年)智福寺が練馬区に移転するまでは智福寺の境内だったそうです。
現在はビルの谷間の公園とか緑地帯といった感じになっています。なお、横にある巨石は高輪の大木戸の石垣に使われていたもののようです。
斎海寺(浄土宗 周光山長寿院斎海寺)
元和7年(1621年)に創建され越後長岡藩主牧野家や伊予松山藩主松平家の江戸菩提寺で安政6年(1859年)にフランス領事館となり2年後に最初の公使館となって明治7年(1874年)まで続いたそうです。本堂のあたりに領事館の建物があったようです。
なお、このお寺は更級日記に出てくる竹芝伝説(皇女と武蔵国の武士との恋愛物語, 追記参照)の竹芝寺の跡地に建っているとのことです。
華頂宮(侯爵)家跡
伏見宮の子孫が臣籍降下して華頂宮(侯爵)家が創設された。現在三田台公園になっており伊皿子貝塚や華頂宮家の井戸がある。この場の貝塚は厚さが1m近くあり相当多くの人が石器時代からここに住んでいたのだろうと想像できます。
亀塚稲荷(亀塚と対になる旧跡だとおもいます。)
境内には「弥陀種子板碑」5基がある。中世の関東地方に多く見られる阿弥陀信仰に基づく供養塔で、秩父青石(緑泥片岩)で出来ている。年紀名が確認できる港区指定有形文化財3基と風化して年紀名が解読不能の2基(港区登録有形文化財)で、新田義貞一族(後醍醐天皇の建武新政樹立の立役者の一人で、後に足利尊氏が叛旗を翻すと南朝の総大将として戦い戦死した。)の霊を弔うための碑とのことのようです。
(東中野の功運寺は忠臣蔵の吉良家の墓や討ち入り時に死んだ吉良家の家臣の碑や浮世絵の歌川豊国、作家の林芙美子、旗本奴の水野成之などの墓がある大きなお寺です。)
港区立郷土史歴史館(白金台、東大病院隣)
現在は港区立郷土史歴史館となっています。建物自体としても大変価値のある建物ですが、常設展示室として三つのテーマで展示されています。
① 港区の歴史を環境・貝塚・内湾漁業のテーマで紹介する「海とひととのダイナミズム」
② 江戸の城南に位置する港区を、まちづくり・武家地・寺社地・町人地と人々の姿を紹
介する「都市と文化のひろがり」
③ 港区の近現代の歴史を、国際化・教育・交通・運輸・産業・災害・戦争などの視点で
紹介する「ひとの移動とくらし」
展示されているものを見ていくと伊皿子貝塚遺跡の発掘調査の報告として貝塚の状況や発掘した土器などや安政5年にアメリカなどと結んだ条約、イギリス公使館であった高輪の東禅寺が勤王佐幕の浪士が襲った時の状況、福澤先生が著した西洋事情・慶應義塾の設立の目的及び塾生の身分証や学生証なども展示されています。
結構見応えがありますので機会があれば是非見学してみてください、お薦めです。
追記
(竹芝伝説とは)
更級日記の筆者(菅原孝標女)が、父親が赴任地上総の国府から京へ帰任する旅に随行して武蔵野国に入ったところ竹芝という寺があり、その寺の起源を村の古老に聞くと以下のような恋愛物語の伝説がその寺の起源であった。
「この寺のある地帯は古くから「たけしば」と呼ばれた坂で、ここに住んでいた青年が京で、夜の間中火を燃やし宮中、后宮、東宮を警護する衛士の任についていた。青年が警護中に自分の生まれ故郷の武蔵野国の風景を懐かしみ早く帰りたいと独り言を呟いていたところ、その独り言を聞いた帝が可愛がっていた姫が青年に自分を拐って男の故郷に連れていき生国の風景を見せろと命じた。青年は姫を背負って武蔵野国へ僅か七日七夜で到着した。
一方宮廷は姫がいないので大混乱になり武蔵野国へ使者を追いかけさせた。使者は三か月もかかってようやく青年の処についたが、姫は、「宮廷には戻らない、青年とここで暮らすのが宿命であり後悔もしていない、彼も武蔵野国の人も咎めないでほしい、使者は早く帰って帝にその旨を奏上せよ」と命じた。使者が帰って報告すると帝は「しかたがない、竹芝の男に武蔵野国を預け与え納税の義務も免除し、その領土は姫に任せる」ということになった。青年は内裏のような家を造り姫と住み子宝にも恵まれた。やがて青年や姫も亡くなり屋敷はお寺になった。そのお寺がこの竹芝寺である。」
寄稿:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)
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