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2023年3月30日木曜日

散策の会:「千住」周辺の散策 結果報告























     松尾芭蕉 奥の細道矢立初めの地「千住」周辺散策

3月27日千住から

令和5年(2023年)3月27日(月)菜種梅雨の最中の実施になりましたが、参加者17名の日頃の行いの良さでしょうか(?)幸いなことに前日・翌日は雨天でしたが当日は雨に遭わないで楽しく散策が出来ました。しかも此の3月27日は、奇しくも芭蕉が深川から荒川を上って千住に上陸し「奥の細道」への旅の第一歩を踏み出した日でもありました。
皆さん気持ちが逸るのか早々と集まり吉祥寺駅を予定より20分も早く千住に向かうことができました。
先ずは南千住駅前広場にある芭蕉の銅像の前で集合写真!!! シャッターは交通整理をしていたガードマンさんにお願いしてパチリ。
2023年3月27日(月)参加者全員でパチリ
最初の散策は回向院(浄土宗 豊国山回向院 荒川区南千住5-33-13
ここは江戸時代に「小塚原(コズガッパラ)」と言われた刑場跡で、寛文7年(1667年)に本所(現在の両国)回向院の住職の弟誉義観によって行路病死者、牢死者、刑死者の供養のために開創したもので、本所回向院の別院だったが現在は独立しているそうです。


橋本景岳(左内)墓所

松蔭二十一回猛士墓

江戸三大刑場の一つであった小塚原刑場は浅草の聖天町辺りから移転してきて約1800坪の敷地だったそうです。回向院の境内には安政の大獄で刑死した吉田松陰・橋本左内や頼山陽の息子である頼三樹三郎の墓、桜田門外の変の関鉄之助等水戸浪士の墓があり、その外にも相馬大作・片岡直次郎・鼠小僧・高橋お伝・腕の喜三郎などの墓が史蹟エリヤとして設置されていました。また、ここでは杉田玄白・前野良沢・中川順庵がターヘルアナトミアの人体解剖図を検証するため刑死者の腑分けに立ち会い解体新書の翻訳を行ったので本堂右手に「観臓記念碑」がありました。
臓観記念碑

二番目はお隣の延命寺(浄土宗 豊国山延命寺 荒川区南千住2-34-5

元々は回向院の一部分で、この延命寺のある部分が処刑場、回向院のあるところが墓地という位置関係だったようですが明治に入り鉄道の常磐線が通るため寺の境内が分断されてしまい延命寺側が回向院の飛び地になっていたが、昭和57年(1982年)に延命寺として独立創建されたそうです。

延命地蔵尊(首切り地蔵)
境内には寛保元年(1741年)に刑死者を弔うために造立された延命地蔵尊(別名「首切り地蔵」)と南無妙法蓮華経と書かれた題目標がありました。このお地蔵さんは東北大地震のとき腕が落ちてしまったそうですが現在は修復されていました


二箇所の散策を終え、日光街道から旧日光街道へ入り

三番目の散策地素盞雄神社(スサノオジンジャ; 荒川区南千住6-60-1に向かいました。

素盞雄神社の開祖は、黒珍(コクチン;修験道の開祖である役小角の高弟)で、彼の住居の東方に小高い塚があり、その塚の上に奇岩があった。黒珍はそれを霊場として崇め、日夜斎戒して礼拝していた。或る夜に奇岩が突如光を発し瑞光石=ズイコウセキ)、二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、素盞雄大神飛鳥アスカノオオカミ大神であると名乗り、「吾等を祀れば疫病を祓い、福を増し、この郷土を永く栄えさせる」と神託を授けたので祠を建て丁重にお祀りしたことがこの神社の創建であるとのことです。その後、素盞雄大神の社殿を西向きに、飛鳥大神の社殿を南向きに造営したが享保3年(1718年)に類焼により焼失したため同年に相殿(アイドノ;一つの社殿に祀ること)として二柱を祀る社殿(瑞光殿;ズイコウデン)を造営して奉斎しているとのことです。境内には、瑞光石、小塚原富士(富士塚)、松尾芭蕉の奥の細道矢立初めの句碑、子育て銀杏、庚申塔などがありましたが、この時期は境内の多数の桃ノ木の花が満開で、神社の「花祭り」期間中だったこともあって氏子から寄贈されたお雛様があちこちに飾られていました。
ひな人形
瑞光石


  奥の細道 出立ちイメージ

(注) 素盞雄大神は天照大神の弟神で八岐大蛇を退治し三種の神器である草薙剣を取り出した。

飛鳥大神は大国主神の子息で事代主神(コトシロヌシノカミ)の別名を持ち明知の神で、

後の世に商売繁盛の「恵比寿様」として崇敬されています。

<次の散策地に向かいますが途中でも色々見るものがありました。>


橋本左内旧套堂
橋本左内坐像
素盞雄神社の西側道路は旧日光街道で、それに面して「橋本佐内墓旧堂」がありました。元々は回向院にあったが荒川区に寄贈され平成21年3月の復元されたものだそうです。

 




 なお、お隣の荒川区立南千住図書館前には、指定の場所に建って写真を撮ると芭蕉と曾良が旅立つ姿が立体的に見える絵が描かれていましたので皆さん順番に指定場所に立って携帯などを掲げていました。

立体的に写って見える

写真で撮ると→

岩山(夏は滝が流れる水遊び場に)









また途中の子供たちが遊んでいた天王公園に大きな岩山(実は張りぼて)に驚いたり、熊野神社を参拝しました。

熊野神社(南千住)
熊野神社は創建永承5年(1050年)、源義家(鎌倉幕府を開いた頼朝の四代前の源氏の武将)が奥州の安倍貞任征伐時に勧請した神社だそうです。戦国時代末期に荒れていた荒川(現在の隅田川)を渡る橋を架けるときに無事完成出来るようこの神社に祈願し、完成時に橋の残材料で社殿を修理したことから橋の架け替え毎に祈願と社殿の修理が慣例になっていたとのことでした。

いよいよ千住大橋を渡って荒川区から足立区に入ります。

千住大橋は徳川家康が隅田川に最初に架けた橋で江戸城防衛上隅田川では唯一の橋だったとのことです。架橋は難工事で担当した関東代官頭伊奈忠次は上記の熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。橋杭材は伊達政宗が寄進した高野槙(コウヤマキ:水に強く腐りにくい)が使用され、現在も水中に残っており、水面にはその場所を示すブイが浮いていますが水が濁っており確認はできませんでした。なお、後に明暦の大火以降交通上・安全上のため2番目の両国橋が造られています。

橋を渡って四番目の散策は足立区立大橋公園・千住宿奥の細道プチテラスです。

大橋公園は、千住大橋を渡ったところにある小さな公園ですが東京都が芭蕉の「奥の細道矢立初めの地」として碑を建てていました。また隅田川の岸辺には色々な記念碑や説明板がありました。またお昼を食べる足立市場の横にあるプチテラスには奥の細道に旅立った芭蕉の銅像や大名行列の模様などを描いた展示物などがありました。

都の奥の細道矢立て初めの碑

プチテラスの芭蕉像


いよいよお昼です!!!



昼食は足立市場の中にある「かどのめし屋」という海鮮と八戸ラーメンが中心の食堂です。

市場の食堂だけに朝7時から昼の2時迄が営業時間というお店で、あまり大きくない店なので、我々の人数を聞いて13時から貸し切りにしてくれました。お蔭でゆっくりと食事を楽しむことが出来ました。早速ビールを飲む人6人(誰かはナイショです)、鮪丼、海鮮丼、鮪丼とラーメンのセット(大食漢?)など個々人で好きなものを頼みましたが市場の食堂らしい新鮮で美味しい品々でした。
海鮮丼
まぐろ丼
午後一番目の散策は圓通寺(曹洞宗 補陀山圓通寺 荒川区南千住1-59-11です


このお寺の建物の上には非常に大きな観音像が安置されており皆さん驚いていました。このお寺は延暦10年(791年)征夷大将軍坂上田村麻呂の開創とのことでした。境内にある   旧上野寛永寺の黒門は慶応4年(1868年)に彰義隊が新政府軍と戦った上野戦争の戦闘の激しさが分かる弾痕が無数に残っています(この時慶應義塾では砲声をバックに福澤先生のウエーランドの経済書の講義が開かれていたことはご存知の通りです)。この黒門は圓通寺の住職が彰義隊の遺体を埋葬し供養したことが縁で明治4年(1907年)に移設されたもので区の指定文化財になっています。なお境内にある彰義隊の戦士の墓は東京都の指定文化財です。

黒門

彰義隊の戦士の墓

また境内には源義家(八幡太郎義家とも呼ばれる)が奥州征伐して48の賊首をこの地に埋めた首塚(四十八塚)があります。この塚のため、この地を小塚原と呼ばれるようになったとの説もあるようです。この塚の上の七重の塔に寺の由緒が彫られているそうです。なお、塚の上にある四基の板碑は荒川区の指定有形文化財だそうです。

黒門と参加者(撮影:梅川氏)
黒門と参加者(撮影:清水氏)
また圓通寺の墓地は昭和38年(1963年)に発生した吉展ちゃん事件(営利誘拐殺人事件;初めて報道規制がなされた事件です。)の遺体発見場所でもあります。

続いての散策は永久寺(天台宗 養光山金錍院永久寺 台東区三ノ輪2-14-5です。

別名は「目黄不動(メキフドウ)」で、創建は14世紀の南北朝時代のようです。

寛永年間(1624~43年)の中頃に五街道が整備された折に上野寛永寺の天海大僧正の発願によって三代将軍家光が江戸府内の由緒ある古刹に街道の道中安全祈願をさせるために街道沿いに五色不動(黒・白・赤・青・黄)を定めたという言い伝えがあります。日光街道に面した永久寺が目黄不動尊に指定されています。なお目黄不動尊は江東区の平井にある最勝寺にもあります。

目黄不動堂

目黄不動尊


次は
浄閑寺(浄土宗 栄法山浄閑寺 荒川区南千住2-1-12の散策です。

明暦元年(1655年)の創建で新吉原の遊女の供養をしてきたことで知られていますが、安政2年(1855年)の大地震で犠牲になった新吉原の遊女たちの遺体が投げ込み同様に葬られたことから「投げ込み寺」の通称でよばれるようになったそうです。境内には新吉原総霊塔が慰霊のため建てられ「生まれては苦界死しては浄閑寺」と花又花酔の句が刻まれています関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られています)。その他にも永井荷風文学碑、三笑亭歌笑塚、本庄兄弟首洗い井戸、新比翼塚、若紫の供養碑などがありました。

永井荷風文学碑

新吉原総霊塔

三遊亭歌笑塚
萩原秋厳先生の墓 新比翼塚

本庄兄弟首洗い井戸
若紫の墓

最後に東京に残る唯一の都電;荒川線に並行してあるジョイフル三の輪商店街(三ノ輪銀座商店街 荒川区南千住1-12を歩いてみました。古くからあるアーケイドの商店街で、いかにも昭和を感じさせる典型的な下町商店街で女性陣を中心に味噌漬けなど買い物をしていましたが、ここにも残念ながら少しづつシャッター街が侵入してきていました。都電一駅分の商店街を楽しんでJR大塚駅までのんびりと都電荒川線を堪能して帰宅しました。行程は89㎞、12,00013,000歩でした‼



 
文:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)


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