3月27日千住から |
令和5年(2023年)3月27日(月)菜種梅雨の最中の実施になりましたが、参加者17名の日頃の行いの良さでしょうか(?)幸いなことに前日・翌日は雨天でしたが当日は雨に遭わないで楽しく散策が出来ました。しかも此の3月27日は、奇しくも芭蕉が深川から荒川を上って千住に上陸し「奥の細道」への旅の第一歩を踏み出した日でもありました。
皆さん気持ちが逸るのか早々と集まり吉祥寺駅を予定より20分も早く千住に向かうことができました。
先ずは南千住駅前広場にある芭蕉の銅像の前で集合写真!!! シャッターは交通整理をしていたガードマンさんにお願いしてパチリ。
2023年3月27日(月)参加者全員でパチリ |
橋本景岳(左内)墓所 |
松蔭二十一回猛士墓 |
臓観記念碑 |
◆二番目はお隣の延命寺(浄土宗 豊国山延命寺 荒川区南千住2-34-5)
延命地蔵尊(首切り地蔵) |
二箇所の散策を終え、日光街道から旧日光街道へ入り
◆三番目の散策地素盞雄神社(スサノオジンジャ; 荒川区南千住6-60-1)に向かいました。
素盞雄神社の開祖は、黒珍(コクチン;修験道の開祖である役小角の高弟)で、彼の住居の東方に小高い塚があり、その塚の上に奇岩があった。黒珍はそれを霊場として崇め、日夜斎戒して礼拝していた。或る夜に奇岩が突如光を発し(瑞光石=ズイコウセキ)、二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、素盞雄大神・飛鳥大神であると名乗り、「吾等を祀れば疫病を祓い、福を増し、この郷土を永く栄えさせる」と神託を授けたので祠を建て丁重にお祀りしたことがこの神社の創建であるとのことです。その後、素盞雄大神の社殿を西向きに、飛鳥大神の社殿を南向きに造営したが享保3年(1718年)に類焼により焼失したため同年に相殿(アイドノ;一つの社殿に祀ること)として二柱を祀る社殿(瑞光殿;ズイコウデン)を造営して奉斎しているとのことです。境内には、瑞光石、小塚原富士(富士塚)、松尾芭蕉の奥の細道矢立初めの句碑、子育て銀杏、庚申塔などがありましたが、この時期は境内の多数の桃ノ木の花が満開で、神社の「花祭り」期間中だったこともあって氏子から寄贈されたお雛様があちこちに飾られていました。
ひな人形 |
瑞光石 |
奥の細道 出立ちイメージ
(注) 素盞雄大神は天照大神の弟神で八岐大蛇を退治し三種の神器である草薙剣を取り出した。
飛鳥大神は大国主神の子息で事代主神(コトシロヌシノカミ)の別名を持ち明知の神で、
後の世に商売繁盛の「恵比寿様」として崇敬されています。
<次の散策地に向かいますが途中でも色々見るものがありました。>
立体的に写って見える |
写真で撮ると→ |
岩山(夏は滝が流れる水遊び場に) |
熊野神社(南千住) |
千住大橋は徳川家康が隅田川に最初に架けた橋で江戸城防衛上隅田川では唯一の橋だったとのことです。架橋は難工事で担当した関東代官頭伊奈忠次は上記の熊野権現に祈願してようやく完成したといわれています。橋杭材は伊達政宗が寄進した高野槙(コウヤマキ:水に強く腐りにくい)が使用され、現在も水中に残っており、水面にはその場所を示すブイが浮いていますが水が濁っており確認はできませんでした。(なお、後に明暦の大火以降交通上・安全上のため2番目の両国橋が造られています。)
◆橋を渡って四番目の散策は足立区立大橋公園・千住宿奥の細道プチテラスです。
大橋公園は、千住大橋を渡ったところにある小さな公園ですが東京都が芭蕉の「奥の細道矢立初めの地」として碑を建てていました。また隅田川の岸辺には色々な記念碑や説明板がありました。またお昼を食べる足立市場の横にあるプチテラスには奥の細道に旅立った芭蕉の銅像や大名行列の模様などを描いた展示物などがありました。
都の奥の細道矢立て初めの碑 |
プチテラスの芭蕉像 |
いよいよお昼です!!!
昼食は足立市場の中にある「かどのめし屋」という海鮮と八戸ラーメンが中心の食堂です。
市場の食堂だけに朝7時から昼の2時迄が営業時間というお店で、あまり大きくない店なので、我々の人数を聞いて13時から貸し切りにしてくれました。お蔭でゆっくりと食事を楽しむことが出来ました。早速ビールを飲む人6人(誰かはナイショです)、鮪丼、海鮮丼、鮪丼とラーメンのセット(大食漢?)など個々人で好きなものを頼みましたが市場の食堂らしい新鮮で美味しい品々でした。
海鮮丼 |
まぐろ丼 |
黒門 |
彰義隊の戦士の墓 |
黒門と参加者(撮影:清水氏) |
◆続いての散策は永久寺(天台宗 養光山金錍院永久寺 台東区三ノ輪2-14-5)です。
別名は「目黄不動(メキフドウ)」で、創建は14世紀の南北朝時代のようです。
目黄不動堂 |
目黄不動尊 |
◆次は浄閑寺(浄土宗 栄法山浄閑寺 荒川区南千住2-1-12)の散策です。
明暦元年(1655年)の創建で新吉原の遊女の供養をしてきたことで知られていますが、安政2年(1855年)の大地震で犠牲になった新吉原の遊女たちの遺体が投げ込み同様に葬られたことから「投げ込み寺」の通称でよばれるようになったそうです。境内には新吉原総霊塔が慰霊のため建てられ「生まれては苦界死しては浄閑寺」と花又花酔の句が刻まれています(関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られています)。その他にも永井荷風文学碑、三笑亭歌笑塚、本庄兄弟首洗い井戸、新比翼塚、若紫の供養碑などがありました。
永井荷風文学碑 |
新吉原総霊塔 |
三遊亭歌笑塚 |
萩原秋厳先生の墓 新比翼塚 |
本庄兄弟首洗い井戸 |
若紫の墓 |