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2020年12月12日土曜日

SUDACHIプロジェクトが「くらしのなかのSDGs」で取り上げられました

「くらしのなかのSDGs―今と未来をつなげるものさし―」(アノニマ・スタジオ編 12月21日発売)に「ボランティアの会」が応援しているSUDACHIプロジェクトが、SDGsの観点から、生活者の目線から、とてもよい形で取り上げられました。

掲載された写真は第一回の贈呈式@横河電機遊歩道。錦華学園を巣立つ若者に梅川会長が目録を贈呈いただきました。当時は直前にクリーニングをして、屋外で贈呈式。卒園生も4名でした。写真の卒園生は今年大学を卒業したそうです。

2020年11月27日金曜日

第39回ボウリング大会 結果報告

 第39回ボウリング大会が11月24日(火)18:30~ 東京ボウリングセンターで開催されました。今回もいろいろな事情によ最終的に、前々回・前回と同じく6名でのこじんまりとした大会となりました。

2020年11月24日(火)@東京ボウリングセンターにて

新型コロナウィルス感染症対策で。我々は1レーンずつ明けての風通しの良いプレーを楽しみましたが、他にプレーヤーがいないのはやはり寂しい感じがしました。

2ゲーム目でターキーを出した菊池さんがnetでもbest scoreで念願の初優勝(Total pin 291 HDCP 116 After HDCP 407)に輝きました。1ゲーム目で優勝か?と思われた伴野さんですが、お疲れが出たのか2ゲーム目が思うように伸びず準優勝 (Total pin 258 HDCP 98 After HDCP 356)、前回優勝の斎藤さんが惜しくも2pin 差で3位 (Total pin 210 HDCP 144 After HDCP 354)となりました。

 

念願の初優勝の菊池さん(右)

惜しくも準優勝の伴野さん

第40回大会は1月12日(火)に開催されますので、皆様奮ってご参加下さい。


2020年11月22日日曜日

「ボランティアの会」が応援しているSUDACHIプロジェクトで日産キャラバン購入

東京都の「子供が輝く東京」応援事業(公益財団法人 東京都福祉保健財団)の助成対象事業として10倍近い難関を突破し採択されました。これにより引取や配送のためのバンを購入、11月21日(土)納車となりました!ありがとうございました。

助成があっても、車維持の経費を考え専用車保有は、あきらめていました。今回、一番のボトルネックであった車庫を、三澤ご夫妻から無償使用貸借契約でお借りすることができることになり保有が可能になりました。感謝感謝です。今まで同様、菊池さんからは荷物により、引き続きトラックをお借りすることには変わりはありません。

車は機能的で十分な安全装備と荷室確保を最優先に選定、引取の安全安心を強化し、天候に依存しない寄贈者の事情に合わせた日程調整、引取りボランティアの負荷分散と体制強化を狙っています。併せて、寄贈申出から寄贈者とのやりとり、引取判断、日程調整と各種手配などを抜本的に見直し、安全・確実な引取手配と実施・フォローを可能にしていきます。

2020年11月13日金曜日

小石川後楽園近傍の散策 結果報告

 11月11日(水)快晴 気温17℃ 軟風という絶好の散策日和の下、11名が参加して散策の会が開催されました。JR吉祥寺駅南改札前に10時集合、総武線で水道橋に向かいました。まずは

小石川後楽園

文化財保護法によって特別史跡および特別名勝に指定されている回遊式築山泉水庭園。寛永6年(1629)に水戸徳川家の中屋敷(後に上屋敷になる)の庭として造られたもの。二代藩主光圀が改修して完成された。命名は中国儒教の教え「士はまさに天下の憂いに先立って憂い天下の楽しみに後れて楽しむ」に由っているといわれている。庭園の設計には、明の遺臣朱舜水を参加させたと言われており中国的な趣が随所にあります。

西門入り口

まだ少し早めでしたが、紅葉も楽しめました

円月橋

参加者記念撮影(撮影:佐藤さん)


紅葉(遠景)










 
 



小石川後楽園を1時間30分程散策したあと、東京ドームシティのYEBISU BARでLunchを
楽しみました。

午後は、まず

常光山源覚寺(俗称:こんにゃく閻魔)

寛永元年(1624)の創建、二代将軍徳川秀忠・三代将軍家光の信仰を得ていた。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)とのことです。

宝暦年代(17511764)に眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願をおこなったところ夢に大王が現れ願掛けの満願成就の暁には私の眼のうち一つを差し上げようと云われた。満願の日に老婆の目は治ったが以来大王の右眼は盲目となった。老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを断ち、それを供え続けたとのこと。このことから、こんにゃく閻魔と呼ばれ眼病治療の閻魔様として信仰を集めている。なお、ここの閻魔様は右目が割れて黄色く濁っているとのことです、よくご覧になってください。

こんにゃく閻魔

 

そして、傳通院寿経寺(俗称:小石川傳通院)

徳川将軍家菩提寺の一つ(芝増上寺に次ぐ)で家康が母親の菩提寺として建立したものです。江戸の三霊山(増上寺、寛永寺、当寺)といわれ家康の母親「於大の方(伝通院)」、家光の正室「鷹司孝子(本理院殿)」、「千姫(天樹院殿)」など徳川所縁の子女が多く埋葬されています。一般人としては小説家の柴田錬三郎、詩人の佐藤春夫、指圧師の浪越徳治郎などの墓があります。

於大の方墓碑


小石川傳通院
   

慈眼院、澤蔵司(タクゾウス)稲荷

傳通院の学寮に澤蔵司という学僧がおり、わずか三年で浄土宗の奥義を極めた。ある時この澤蔵司が学寮長の夢枕に現れ、実は自分は千代田城内の稲荷大明神だが(澤蔵司は「狐」という説もあります。)浄土宗を勉強したくて学僧になったが、念願がかなったので神に戻る。お礼にこの寺を末永く護っていくと云い消えた。このため傳通院は山内の慈眼院を別当寺としてその境内に澤蔵司稲荷を祀ったとのことです。また、すぐ前の善光寺坂に椋(ムク)の老木があるが、これに澤蔵司が宿っているといわれ、道路拡幅のときも二股にして除けて通るようにしたとのことです。
澤蔵司稲荷

境内の一角に祀られる稲荷様






 

 

そして最後に、北野神社(牛天神)

   
北野神社(牛天神)
  創建は、鎌倉時代に源頼朝が奥州に向かう折り(1184年)、この    岩に腰かけて休憩していると牛に乗った菅原道真公が夢に出て二つの    喜びがあるとの神託を受け、実際に頼家が生まれ・平氏を西に追うことが出来、喜びが叶ったことからこの岩を祀り牛天神を創立した。
この腰かけた岩が牛に似ており「撫で岩(全国の撫で牛の発祥」)として現在も社殿脇にある。なお、境内に樹齢100年を超える木斛(モッコク)の木(ご神木)があり、この木に願かけをすると願いが叶うとも言われているようです。
「撫で岩(全国の撫で牛の発祥)」

また、境内にある太田神社には面白い言い伝えがあります。現在の太田神社の御祭神は芸能の神「天鈿女命(アメノウズメノミコト)」・道の神「猿田彦命御夫婦」と「宇迦御魂命(ウカノミタマノミコト)」だが、元々は貧乏神と言われた弁財天の姉である「黒闇天女(クロヤミテンニョ)」を祭っていたが、或る時小石川に住む清貧な旗本の夢枕に老婆が立ち「我はこの家に住み着いている貧乏神だが、居心地がよく長い間世話になったのでお礼がしたい。ついては毎月11525日に赤飯と油揚げを我に備え祀れば福を授けよう」というので、旗本は忘れずに実行すると、たちまち運が向き金持ちになったので、その後多数の参拝者がご利益を求めて訪れるようになったとのことです。
狛牛(左)と色づいた木々
太田神社

楽しかった散策も終わり、北野神社より残照の中を飯田橋まで歩き現地解散となりました。

2020年11月3日火曜日

武藏野三田会・三鷹三田会  第1回合同ゴルフコンペ 結果報告

 当初4月10日開催を予定しておりましたが、コロナ禍により已む無く延期せざるを得ませんでした『武藏野三田会・三鷹三田会 第1回合同ゴルフコンペが、10月30日(金)に八王子C.C.にて開催されました。参加者は武藏野三田会より18名、三鷹三田会より21名総勢39名にてOUT及びINから8:56~ 5組ずつ同時スタート、気温18℃弱、風速3m/sと絶好のゴルフ日和の下熱戦が繰り広げられました。

2020年10月30日(金)@八王子カントリークラブ

今回は新新ペリアを採用し実力と運が試されましたが、結果としてBest Grossだった三鷹三田会の山本守さんが実力を発揮して優勝(Gross 91 HDCP 19.2 Net 71.8)、準優勝・3位には運の強い方が入りました。もう一人Best Grossだった武藏野三田会の鷲田忠保さんは7位(Gross 91 HDCP 16 Net 75)でLucky Seven賞に輝きました。

両三田会のNet Score 上位5名のScore総計による対抗戦は、三鷹三田会が10.2ストロークの差で勝利し参加費の残金を獲得しました。

19番ホールとしての表彰式はミーティングルーム3部屋をぶち抜いた形で行われ、3蜜を避けながらも参加者の交流が活発に行われ楽しかったコンペを締めくくりました。

3密を避けた表彰・交流会の様子

全員一致で合同コンペを継続的に開催する事が決まりましたが、幹事業務の煩雑さを考慮して第2回は2022年4月に同会場にて開催する事となりました。

                             幹事:神保二郎・平尾和寿





2020年10月9日金曜日

散策の会へのお誘い

小石川後楽園


       

 

                                                                                                                         2020年10月9日

                                                                                                               武藏野三田会 「散策の会」

                                                                                                世話人  一色 昭吾
 

こんにゃく閻魔
久し振りの散策の会を下記の通り開催いたします。今回は「小石川後楽園」など水道橋周辺の距離の少なめなゆったりとした散策ですので、多数の方のご参加をお待ちしております 。

                   記 


 

1. 開催日時:2020 年 11 月 11 日 (水)

2. 集合場所:JR吉祥寺駅南口改札(公園口)前

3. 集合時間:10時

小石川傳通院
4. 散策コース

   小石川後楽園

   (昼食)

   こんにゃく閻魔(常光寺 源覚寺)

   慈眼寺(含む沢蔵司稲荷)

   小石川傳通院

   牛天神 北野神社

 

5.  昼 食:YEBISU BAR 東京ドームシティ店

6. 解散場所・時間:16時頃 水道橋駅

7. 参加のお申込は 11 5 ()までにお願いします。

8.  連絡先:   一色昭吾  TEL & FAX 0422-43-4640

                     E-mail    s.isshiki@jcom.zaq.ne.jp      


                                           以上



【ご存知新選組隊長 近藤勇】

                               ご存知新選組隊長 近藤勇

三鷹龍源寺にある胸像
近藤勇は、誰もが知っている幕末の有名人で、天然理心流の使い手で新選組隊長、愛刀は虎徹と云うのは定番の知識だと思います。彼の生まれ育った場所が案外我が家の近くであることが分かりました。
近藤勇は天保5年(1834)に武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水)の百姓宮川家の三男として生まれたそうです。


近藤勇生家跡および近藤神社

宮川家は経済的には中流の上の家庭だったとのことです。この生家は太平洋戦争の時に調布飛行場延長工事のため取り壊されたが、井戸と近藤勇を祀った小さな神社が現在も残っています。


 

ビルの裏にひっそりとあった試衛館跡の碑

近藤は嘉永元年(1848)に江戸牛込(現新宿区)に所在する試衛館(試衛場)天然理心流剣術道場に入門し、翌嘉永2年には目録を受け、同年に近藤周斎の養子になり、近藤姓を与えられたわけです。この試衛館の跡の碑は、現在大きなビルの裏側にあたる細い路地に面してあるため探すのに苦労しました。

 

金地院にあった近藤周斎の墓

 近藤周斎は天然理心流剣術三代目宗家で試衛館を開設した人物です。この周斎の墓は東京タワーの真下の港区にある金地院(徳川家康の下で外交・立法・宗教の統制を行い黒衣の宰相と云われた金地院崇伝の建てた寺)にありました。実は崇伝の建てたお寺がどのようなものか、興味があってお寺を観に行ったところで偶然お会いした人から尋ねられて一緒に探したところ周斎のお墓を発見することができたものです。

 

近藤は、万延元年(1860)に御三卿の一つ清水徳川家の家臣松井氏の娘と結婚し、翌年には天然理心流剣術第四代宗家となり日野宿の名主などが門人となり後援者を多数得ているようです。なお、調布の生家の脇には勇の甥(勇五郎、勇の娘婿でもある。)が建てた天然理心流剣術道場(撥雲館)の建物が残っています。

 

撥雲館の碑

天然理心流剣術道場(撥雲館)

 

 文久3年(1863)幕府は庄内藩出身の清河八郎、旗本の松平忠敏の献策により第14代将軍家茂の上洛を警護する浪士組を募集した。これに水戸藩の芹沢鴨を初め近藤等試衛館から8人が参加し京都へ向かった。京都到着後、清河等は江戸に帰ったが芹沢と近藤達は京都に残り会津藩預かりとなり市内警護を担う壬生浪士組を結成した。やがて長州藩が京都政局から排除され、壬生浪士組は長州の残党狩りで活躍し新選組の隊名を下賜された。

その後、近藤・土方等は近藤の意に応じない芹沢や隊士を暗殺し近藤主体の体制を作り上げ池田屋事件や禁門の変などで活躍するも鳥羽・伏見の戦いで敗れ江戸に戻り甲府城の守りである甲陽鎮撫を命じられ新選組を甲陽鎮撫隊と改名、しかし新政府軍と勝沼で戦い敗れ、会津で再起すべく千葉の流山に屯集しているときに新政府軍に捕縛され、総督府が置かれていた板橋宿に連行された。

板橋宿平尾の脇本陣跡

板橋宿平尾の脇本陣(豊田家)に幽閉され連日取り調べを受けた後、板橋刑場で斬首され、首は京都産条河原で梟首されたが、その後の行方は諸説あるようですが不明であるとのことです。
板橋駅の前に壽徳寺境外墓地として旧同士長倉新八が建立した近藤の墓所があります。

 
墓碑には土方や他の隊士名前もあり慰霊塔の意味もあるとのことです。また同じ墓所に長倉新八自身の墓もあります。
 

近藤勇埋葬当初の墓石

永倉新八の墓石

壽徳寺境外墓地全景

 


また、近藤勇の兄音五郎が刑場番人に袖の下を使い首のない遺体を掘り起こして菩提寺である三鷹の龍源寺に埋葬したとのことで龍源寺にお墓があります。

都の文化財を表す表示板

龍源寺にある勇の墓石

近藤勇の首の行方については、以下のような説があるようです。

・ 岡崎市の法藏寺:旧隊士の齊藤一が首を持ち去り京都の宝蔵寺の住職に預けた。

  その住職が岡崎の法藏寺に移るときに近藤勇の首も一緒に法藏寺に移されたという説。

・ 米沢市の高国寺:偶然上京していた従兄弟の近藤金太郎が盗み出し、一度焼いて骨を米

    沢に持ち帰り高国寺の近藤家の墓に埋葬したという説。

・ 京都市の東本願寺:東本願寺が引き取り東大谷に埋葬したという説。

・ 会津若松市の天寧寺:下僕の上坂仙吉(侠客で通称会津の小鉄)が愛刀の虎徹と一緒に

  首を運んで会津若松市の天寧寺に埋葬したという説。



                                                                                     

                                【寄稿】 梅川芳宏(1962年法)