11月11日(水)快晴 気温17℃ 軟風という絶好の散策日和の下、11名が参加して散策の会が開催されました。JR吉祥寺駅南改札前に10時集合、総武線で水道橋に向かいました。まずは
小石川後楽園
文化財保護法によって特別史跡および特別名勝に指定されている回遊式築山泉水庭園。寛永6年(1629)に水戸徳川家の中屋敷(後に上屋敷になる)の庭として造られたもの。二代藩主光圀が改修して完成された。命名は中国儒教の教え「士はまさに天下の憂いに先立って憂い天下の楽しみに後れて楽しむ」に由っているといわれている。庭園の設計には、明の遺臣朱舜水を参加させたと言われており中国的な趣が随所にあります。
西門入り口 |
まだ少し早めでしたが、紅葉も楽しめました |
円月橋 |
参加者記念撮影(撮影:佐藤さん) |
紅葉(遠景) |
常光山源覚寺(俗称:こんにゃく閻魔)
寛永元年(1624)の創建、二代将軍徳川秀忠・三代将軍家光の信仰を得ていた。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)とのことです。
宝暦年代(1751~1764)に眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈願をおこなったところ夢に大王が現れ願掛けの満願成就の暁には私の眼のうち一つを差し上げようと云われた。満願の日に老婆の目は治ったが以来大王の右眼は盲目となった。老婆は感謝のしるしとして好物のこんにゃくを断ち、それを供え続けたとのこと。このことから、こんにゃく閻魔と呼ばれ眼病治療の閻魔様として信仰を集めている。なお、ここの閻魔様は右目が割れて黄色く濁っているとのことです、よくご覧になってください。
こんにゃく閻魔 |
そして、傳通院寿経寺(俗称:小石川傳通院)
徳川将軍家菩提寺の一つ(芝増上寺に次ぐ)で家康が母親の菩提寺として建立したものです。江戸の三霊山(増上寺、寛永寺、当寺)といわれ家康の母親「於大の方(伝通院)」、家光の正室「鷹司孝子(本理院殿)」、「千姫(天樹院殿)」など徳川所縁の子女が多く埋葬されています。一般人としては小説家の柴田錬三郎、詩人の佐藤春夫、指圧師の浪越徳治郎などの墓があります。
於大の方墓碑 |
小石川傳通院 | |
慈眼院、澤蔵司(タクゾウス)稲荷
傳通院の学寮に澤蔵司という学僧がおり、わずか三年で浄土宗の奥義を極めた。ある時この澤蔵司が学寮長の夢枕に現れ、実は自分は千代田城内の稲荷大明神だが(澤蔵司は「狐」という説もあります。)浄土宗を勉強したくて学僧になったが、念願がかなったので神に戻る。お礼にこの寺を末永く護っていくと云い消えた。このため傳通院は山内の慈眼院を別当寺としてその境内に澤蔵司稲荷を祀ったとのことです。また、すぐ前の善光寺坂に椋(ムク)の老木があるが、これに澤蔵司が宿っているといわれ、道路拡幅のときも二股にして除けて通るようにしたとのことです。
そして最後に、北野神社(牛天神)
北野神社(牛天神) |
「撫で岩(全国の撫で牛の発祥)」 |
また、境内にある太田神社には面白い言い伝えがあります。現在の太田神社の御祭神は芸能の神「天鈿女命(アメノウズメノミコト)」・道の神「猿田彦命御夫婦」と「宇迦御魂命(ウカノミタマノミコト)」だが、元々は貧乏神と言われた弁財天の姉である「黒闇天女(クロヤミテンニョ)」を祭っていたが、或る時小石川に住む清貧な旗本の夢枕に老婆が立ち「我はこの家に住み着いている貧乏神だが、居心地がよく長い間世話になったのでお礼がしたい。ついては毎月1・15・25日に赤飯と油揚げを我に備え祀れば福を授けよう」というので、旗本は忘れずに実行すると、たちまち運が向き金持ちになったので、その後多数の参拝者がご利益を求めて訪れるようになったとのことです。
狛牛(左)と色づいた木々 |
太田神社 |
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