ご存知新選組隊長 近藤勇
三鷹龍源寺にある胸像 |
近藤勇は天保5年(1834)に武蔵国多摩郡上石原村(現調布市野水)の百姓宮川家の三男として生まれたそうです。
近藤勇生家跡および近藤神社 |
ビルの裏にひっそりとあった試衛館跡の碑 |
金地院にあった近藤周斎の墓 |
近藤は、万延元年(1860)に御三卿の一つ清水徳川家の家臣松井氏の娘と結婚し、翌年には天然理心流剣術第四代宗家となり日野宿の名主などが門人となり後援者を多数得ているようです。なお、調布の生家の脇には勇の甥(勇五郎、勇の娘婿でもある。)が建てた天然理心流剣術道場(撥雲館)の建物が残っています。
文久3年(1863)幕府は庄内藩出身の清河八郎、旗本の松平忠敏の献策により第14代将軍家茂の上洛を警護する浪士組を募集した。これに水戸藩の芹沢鴨を初め近藤等試衛館から8人が参加し京都へ向かった。京都到着後、清河等は江戸に帰ったが芹沢と近藤達は京都に残り会津藩預かりとなり市内警護を担う壬生浪士組を結成した。やがて長州藩が京都政局から排除され、壬生浪士組は長州の残党狩りで活躍し新選組の隊名を下賜された。
その後、近藤・土方等は近藤の意に応じない芹沢や隊士を暗殺し近藤主体の体制を作り上げ池田屋事件や禁門の変などで活躍するも鳥羽・伏見の戦いで敗れ江戸に戻り甲府城の守りである甲陽鎮撫を命じられ新選組を甲陽鎮撫隊と改名、しかし新政府軍と勝沼で戦い敗れ、会津で再起すべく千葉の流山に屯集しているときに新政府軍に捕縛され、総督府が置かれていた板橋宿に連行された。
板橋宿平尾の脇本陣跡 |
板橋駅の前に壽徳寺境外墓地として旧同士長倉新八が建立した近藤の墓所があります。
近藤勇埋葬当初の墓石 |
永倉新八の墓石 |
近藤勇の首の行方については、以下のような説があるようです。
・ 岡崎市の法藏寺:旧隊士の齊藤一が首を持ち去り京都の宝蔵寺の住職に預けた。
その住職が岡崎の法藏寺に移るときに近藤勇の首も一緒に法藏寺に移されたという説。
・ 米沢市の高国寺:偶然上京していた従兄弟の近藤金太郎が盗み出し、一度焼いて骨を米
沢に持ち帰り高国寺の近藤家の墓に埋葬したという説。
・ 京都市の東本願寺:東本願寺が引き取り東大谷に埋葬したという説。
・ 会津若松市の天寧寺:下僕の上坂仙吉(侠客で通称会津の小鉄)が愛刀の虎徹と一緒に
首を運んで会津若松市の天寧寺に埋葬したという説。
【寄稿】 梅川芳宏(1962年法)
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