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2019年7月11日木曜日

散策の会 「武蔵国分寺跡」を訪ねて 結果報告


201975日(金)に実施、11名が参加しました。       
心配された雨も降らず、快適な気温の下先ず殿ヶ谷戸庭園を会員のみで散策し、松原幹事アレンジのレストランでワンドリンクサービス付き昼食を楽しんだ後、国分寺市認定史跡ガイドの天野さんに案内頂き散策を楽しみました。

殿ヶ谷戸庭園
七夕短冊 願い事
次郎弁天の池
国分寺崖線を利用した回遊式庭園。次郎弁天の池は都の名湧水57選に入っているそうです。この庭園は元々三菱合資会社総理事・如水会初代理事長・満鉄副総裁などを務めた江口定条(えぐちさだえ)の別荘として大正初期に造られた。昭和に入って岩崎小彌太が別荘として購入・整備した。現在は東京都が買収し公園として公開(有料)されておりモミジも多く紅葉の秋も素晴らしいだろうと想像させました。



お鷹の道・真姿の池

武蔵国分寺跡の説明(天野史跡ガイド)
湧水源
真姿の池湧水群・お鷹の道に向かう途中に野川の源流の流れを観ることができます。お鷹の道は国分寺崖線によって作られたハケに沿った用水路で、名水100選に選ばれている。国分寺は徳川御三家の尾張藩の鷹狩場でもあったのでお鷹の道と呼ばれているようです。お鷹の道は真姿の池に繋がりますが、この池の名の由来は9世紀の中頃に当時絶世の美女と云われた玉造小町という女性が皮膚病を患い治療の効なく容色を失ったときに国分寺を訪ね薬師如来に一心に祈ったところ、21日目に童子が現れ「この池の水で身を清めよ」と伝えられたので洗うこと7日で元の美しい姿に戻ったとの言い伝えがあるためとのことです。

武蔵国分寺・国分尼寺
七重塔跡
天平13年(741)聖武天皇が仏教による国家鎮護のため国分寺建立詔によって全国に七重の塔を持つ国分僧寺と国分尼寺を建てさせました。その武蔵国のお寺です。
国分寺仁王門にて
東山道武蔵路を挟んで僧寺、尼寺が建立されています。七重塔(落雷で焼失した)を持つ壮大なお寺だったと思われますが、新田義貞と鎌倉幕府の分倍河原の合戦(1333)によって焼失したとのことです。国分寺跡・国分尼寺跡は現在歴史公園になっており、国分寺・国分尼寺ともに金堂跡、講堂、中門跡などが整備されて興味深い佇まいの遺構になっています。
国分寺仁王門
なお、分倍河原の合戦の際に国分寺の木像薬師如来像は自ら飛び去り焼失を免れたとの伝説があります(本尊のお釈迦様ではなく薬師如来が助かっている、しかも自分で避難訓練したという興味ある伝説ですね)。
武蔵国分寺 中門跡
現在の武蔵国分寺の境内には本堂(本尊阿弥陀如来は非公開)、薬師堂(前述の薬師如来、日光・月光菩薩、⒓神将が祀られているようです)、境内には仁王門、楼門、鐘楼、万葉植物園などがあります。

伝鎌倉街道
鎌倉時代の幕府所在地と各地を結ぶ主要道路の一つです。当時は武蔵国を通過する以前の東山道武蔵路と道筋が重なる「上の道」と呼称されていた主要道路で、鎌倉から町田・府中を経て武蔵国分尼寺の西側・小平を通り群馬・長野方面に延びる道ですが、現在はなかなか味のある約120mの切通しが伝鎌倉街道として残っています。

東山道武蔵路跡(古代の道路の遺構)
七世紀に律令制が確立され、それに伴って行政区画も整備されて五畿七道()が設置された。この「道」制度によって畿内の五国以外の国は所定の「道」に属すことになった。またそれぞれの国の国府を結ぶ同名の官道が建設された。武蔵国は当初東山道(近江国から美濃・飛騨・信州を経て今の群馬・栃木・東北の地域が属する)に属したため道としての東山道から離れた処にあることになります。そのため、武蔵国の国府に繋がる道として東山道武蔵路が造られたそうです。道幅が12m両側に側溝もある直線道路で今でも広い道路に入ると思います。なお、後に武蔵国は東山道から離れ東海道に移管された(771年)ため東山道武蔵路は官道から外されたそうです。

註:五畿(「畿内」ともいう)大和・山城・摂津・河内・和泉の五国、
 七道:東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・ 南海道・西海道

散策行程の最後に記念撮影:東山道武蔵路遺構再生展示施設

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