歌舞伎に観る
色男「白井権八」と男伊達「幡随院長兵衛」の史蹟を訪ねて
江戸時代の刑場として有名な鈴ヶ森(現在の品川区南大井2丁目付近)は、歌舞伎では幡随院長兵衛と白井権八の出会いの場としても有名です。白井権八が見事な剣の腕前で、言いがかりをつけた雲助十数人を斬り捨て、立ち去ろうとするのを駕籠の中から見ていた幡随院長兵衛が「お若けえの、おまちなせ~」と呼びかけ、権八が「待てとお止めなされしは拙者でがざるかな」と応える有名な掛け合いで始まり、「お若けえ方の御手のうち、あまり見事と感心いたし、思わず見とれておりやした」の長兵衛の褒め言葉に「雉も鳴かず討たれまいに、益なき殺生をいたしてござる」と言う掛け合いになるようです。
歌舞伎の白井権八は、腕が立つだけではなく、大変な色男で、吉原の大店三浦屋の遊女「小紫」と恋仲になるヒーローとして描かれていますが、そのモデルとなった人は、平井権八といい、鳥取藩士で、父親の同僚である本庄助太夫という人を殺して江戸に出奔し、江戸では、馴染みの遊女小紫との遊びの金を手に入れるため辻斬り130余名に及んだといわれている悪人のようです。チョットがっかりですね。
権八は、一時期「普化宗(虚無僧)」の東昌寺に身を潜め、尺八を修め、虚無僧となって郷里の鳥取を訪ねたが、父母も死去していたことから江戸に戻って自首し、品川の鈴ケ森の刑場で磔・獄門にされたとのことです。また、歌舞伎のような幡随院長兵衛との出会いは、幡随院長兵衛(1622~1657)と白井権八(1655?~1679)とは、生きた時代が違うので、冒頭のような出会いは、ありえないことのようですが、ともに江戸庶民に人気が高かった人物の一種の英雄伝説として受け取れそうです。
浄閑寺の首洗いの井戸 |
権八・小紫の比翼塚 |
鈴ヶ森には現在も処刑場跡が京浜急行大森海岸駅近くの大経寺の境内に残っており、磔の柱の台石や火炙りの刑の柱の台石なども残っています。
鈴ヶ森刑場跡 |
左の四角い石が礫の柱の台 右の丸い石が火炙の柱の台石 |
なお、刑場の近くに磐井神社があり、その境内に鈴石(振ったり転がすと音がする)があったため「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったとのことです。現在も磐井神社には鈴石や烏石と呼ばれる石があります。また、鈴ヶ森の刑場で火炙りの刑にあった八百屋お七の3回忌に供養のために建てられた2mもある振り袖姿のお七地蔵が祀られている密厳院も近くにある。
密厳院のお七地像 |
磐井神社 |
磐井神社の鈴石 |
一方の幡随院長兵衛は、江戸時代前期の町奴の頭領で日本の侠客の元祖とも言われている。
元は唐津藩の武士の子供とされているが、父の死後に江戸の幡随院(京都知恩院の末寺)の住職を頼って江戸に出てきて口入れ屋の娘と結婚し浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたといわれている。旗本奴と男伊達を競い合う町奴の頭領として名を売るが明暦3年(1657年)に若い者の揉め事の手打ちを口実に旗本奴の頭領水野十郎左衛門に呼び出され殺害された。
芝居の「極付幡随院長兵衛」の筋書きでは、罠であることを勘付いていたが「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れだ。
源空寺の幡随院長兵衛夫妻の墓 |
谷文晁の墓 |
伊能忠敬の墓 |
水野十郎左衛門の墓 |
旗本奴の頭領水野十郎左衛門は、福山城主の孫で3,000石の旗本であり、旗本奴の大小神祇組(白柄組との説も聞いた。)の首領として無頼の生活を送っていたが、幡随院長兵衛の殺害などその所業が幕府に咎められ切腹させられた。水野十郎左衛門のお墓は中野区上高田の功運寺にある。なお、このお寺には吉良上野介のお墓と赤穂浪士と戦った吉良家の家臣の顕彰碑や今川義元の三男である今川長得、歌川豊国、林芙美子などの墓があります。
【寄稿】 梅川芳宏(S37法)
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