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2016年12月4日日曜日

散策の会 「お茶の水~池之端周辺」

11月8日(火)に、お茶の水から池之端周辺を散策しました。
当日は、天気も良く、9名で楽しく散策してきました。

ニコライ堂

シアから日本に渡り正教伝道を行いつつ聖堂を竣工
ニコライ堂
させた聖ニコライの名前を採ってニコライ堂と呼ば
れていますが、正式名称は「東京復活大聖堂」といい、
日本正教会の首座主教座教会です。

聖ニコライは最初に函館で伝道していましたが、1872
(明治5)9月に神田駿河台にあった定火消の役宅を購入して
東京の新拠点としたとのことです。聖堂は石造りの重要
文化財の中では一番古いものとのことで、実施設計は
ジョサイヤ・コンドルだそうです。
(旧岩崎邸の設計者もジョサイヤ・コンドルです。)


湯島聖堂


川5代将軍綱吉が儒学の振興を図るため元禄3年(1690)に創建し、大成殿と名付けた廟殿(孔子廟)その他の建物を含めて全体を「聖堂」と呼び、翌年には林家(儒学者;林羅山の林家)の家塾も、ここに移したことが始まりとのことです。

この場所には、幕府直轄の学校である昌平坂学問所、現在の東京国立博物館の前身である博物館、筑波大学の前身の東京師範学校・東京高等師範学校やお茶の水女子大学の前身の東京女子師範学校・東京女子高等師範学校などが設置されるなど近代教育発祥の地でもあります。

孔子像前にて
関東大地震で入徳門と水屋を残して全て焼失しましたが、昭和10年に鉄筋コンクリート造りで再建され、昭和61年に補修工事が始まり平成53月に竣工しました。なお、現在の大成殿には孔子とその孫(子思)、孔子の門人、儒学の伝承者である孟子の5体の像が安置されています。また、聖堂の境内には大きな孔子像とその前に「(かい)の木(学名;とねりばはぜのき うるし科)」があるが、この木は中国の孔子の墓所に植えられている楷の木の種から育てられたとのことです。楷の木の枝葉は整然としているので書道の楷書の語源になったといわれています。



 
神田明神

式名称は「神田神社」であり、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・築地魚市場など108の町の総氏神で、神田祭で有名です。

神田明神の祭神は、大己(おおな)(むち)(のみこと)(大黒様)、少彦名(すくなひこなの)(みこと)(恵比須様)、平将門命の3柱。

社伝では、天平2年(730年)武蔵野国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が大己(おおな)(むち)(のみこと)を祖神として祀ったことに始まるとしているそうです。

神田明神
神田は、もとは伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で神田の鎮めのために創建された「神田の宮」と称していたようです。

承平5年(935年)の平将門の乱で敗死した将門の首が神田明神の近くに葬られたが、嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行り、これが将門の祟りとされ供養が行われ延慶2年(1309年)に神田明神の(あい)殿(どの)(しん)となったとのことです。

江戸時代に現在地に遷座され江戸総鎮守として尊崇された。神田祭は、日枝神社の山王祭・富岡八幡宮の深川祭と並んで「江戸三大祭」の一つで、山車は将軍上覧のため江戸城に入ったため「天下祭」といわれています。

明治天皇が行幸するに際して逆臣である将門が祀られている処へは行けないということで将門が祭神から外され境内の摂社(せっしゃ)に遷され、代わりに茨城の大洗磯前神社から少彦名(すくなひこなの)(みこと)が勧請されたが、戦後になって昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰したとのことです。尚、境内には野村胡堂の創作した銭形平次捕物控の主人公である銭形平次の碑があります。

湯島天神(湯島天満宮)


鏡花の「婦系図」や梅の名所として有名ですが、湯島天神は、亀戸・谷保の天神様と並んで江戸・東京における代表的な天満宮(関東の三大天神)です。祭神は天之手
(あめのた)力雄(ぢからおの)(みこと)と菅原道真公です。

社伝では、雄略天皇2年(458年)に雄略天皇の勅命によって天之手(あめのた)力雄(ぢからおの)(みこと)を祀る神社として創建され、南北朝時代の正平10年(1355年)に住民の請願で菅原道真を勧請して合祀したとのことです。江戸期には徳川家の崇敬を受け多くの学者・文人が訪れている。また一方で享保期には富籤の興業が盛んになり庶民に親しまれた(谷中の感應寺<現在の天王寺>、目黒不動の滝泉寺と並んで「江戸の三富」の一つだそうです。)。



麟祥院


春日局の墓
光公の乳母として知られる春日局の開基による寺で、              寛永元年に隠棲所として創建された。春日局の法号は
「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」で、家光がこの法号を
寺号にするよう命じたため「天澤山麟祥院」となったとの
ことです。


麟祥院
なお、春日局の墓石及び台石には穴が穿ってありますが、これは死んでも天下の政道を見守るために黄泉から見通せる墓を作ってほしいという遺言に基づくものとのことです。

また、明治20年(1887年)には、井上円了が、この寺の境内の一棟を借りて哲学館(東洋大学の前身)を創設したので、「東洋大学発祥の地」の碑もあります。

旧岩崎邸・庭園
旧岩崎邸

菱の創設者である岩崎家の本邸で
ジョサイヤ・コンドルの設計。当時は
15,000坪の敷地に20棟以上の建物があった
そうですが、現在は洋館(岩崎家の迎賓館)、
和館(岩崎家の生活の場)、撞球館(校倉造の外観)の3棟と庭園で1/3しか残っていない。なお、撞球館は洋館と地下で繋がっている。
戦後、GHQ接収されたが、昭和27年に返還
された。返還後は敷地の中に司法研修所等が
建設され敷地が1/3になってしまったとのことです。なお、現在は都立公園となっています。
また司法研修所の建物は関東財務局の東京事務所などになっています。

GHQ接収時代は、キャノン機関(諜報機関
)の本部になっており、彼等が夜中に酔っぱ
らって拳銃を撃ったなどの逸話があります。
                                                                                                                                                     


月の松
寛永寺、清水観音堂

都の清水寺を模した舞台造りのお堂で寛永8年
1631)に天海大僧正によって建立された。
「月の松」という松の枝が円を描くように丸く調整
されている松があり、広重の「名所江戸百景」にも
描かれており、現在150年ぶりぐらいに復活しています

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