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2016年4月23日土曜日

江戸の三大美人 笠森お仙



江戸の明和期に、それまでの浮世絵とは異なりまったく新しい様式の多色刷版画「錦絵」による美人画の浮世絵師鈴木春信を有名にした笠森稲荷神社前の水茶屋「鍵屋」の看板娘で通称「笠森お仙」という江戸三大美人のトップがいます。

  *  江戸の美人には明和三大美人、寛政の二美人とか明暦の美人など色々あるようですが、「鍵屋のお仙」はつねにトップクラスとして挙げられています。 
* 水茶屋は江戸の賑わうところに葭簀張りの小屋掛けで麦湯、桜湯などのお茶を出し一休みを提供する商売ですが、一部には、みだらな行為で流行った店もあったようですが、浅草観音伝法院付近には、お茶屋が軒を並べ「浅草二十軒茶屋」という言葉も小説などでよく出てきます。




年齢の若い人はともかくとして、東京生まれの一定年齢以上の人は、おそらく聞いたことがあると思う江戸手鞠歌に 「向こう横丁のお稲荷さんへ一銭あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋へ腰をかけたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目でみれば、米の団子か土の団子か、とうとう鳶にさらわれた。」というものがあります。ここに出てくる「お仙」が「笠森お仙」です。また、「土の団子」というのは、笠森稲荷に願を掛けるときに、まず土で作った団子を供え、願が叶ったときに米の団子を供える風習があったことからきているようです。

「笠森お仙」が居た「笠森稲荷」に関しては諸説があるようです。そもそも笠森稲荷神社は大阪府高槻市にある稲荷神社で、そこから勧請された各地の神社も笠森稲荷神社になるわけで、江戸時代の谷中には大円寺と福泉院に、それぞれの笠森稲荷神社があったとのことで、今でも笠森稲荷を合祀(薬王院として合祀している)している大円寺(台東区谷中312)には、境内に文学博士笹川臨風の「お仙と春信の顕彰碑」や永井荷風の「笠森阿仙之碑」あるいは薬王院らしく「瘡守薬王菩薩」という碑が立っているが、水茶屋「鍵屋」があったのは福泉院の前であるという説もあるようです。この福泉院は幕末の上野戦争で焼失し廃寺になり笠森稲荷は寛永寺の子院「養寿院」に移転し立ち入りも禁止されているとのことです。なお福泉院跡には「功徳林寺(谷中769)」が建立され稲荷神社も祀られています。以前に功徳林寺の稲荷神社は、笠森稲荷神社ではなく一般の稲荷神社であるという説明を聞いていましたし、その写真も如何にも侘しいものだったのですが、今回訪ねてみると、真新しく再建されており「笠森稲荷神社」となっていて驚きました。

肝心の「お仙」ですが、お仙は、明和7年(1770年)に突然姿を消したため、お仙目当てに訪れた人は、老齢の父親しかいないため、当時「とんだ茶釜が薬缶に化けた。」という言葉が流行したとのことです。
実際は、消えたわけではなく旗本御庭番で笠森稲荷神社の地主である倉知政之助に嫁ぎ、9人の子供を持ったとのことです。お仙を葬ったお墓は中野の正見寺(中野区上高田1110)にあります。



文中の由来等は、wikipedia、マイナビ、各ホームページ、猫の足あと、現地の由来書等を参考にしました。文中に誤りがある場合は筆者の責任です。
                                                                        
寄稿者 : 梅川芳宏 (S37 法)




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