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2016年4月10日日曜日

東京にある福澤先生および塾所縁の地を訪ねて



学生時代の古い写真を整理していたら、大分・中津の福沢旧邸を訪ねたときの写真が出てきました。3年生から4年生になる春休みに友人と国鉄(現JR)の周遊券(九州や東北、北海道など広域の全線路を30日間自由に利用できる。当時九州は5,000円)を利用した九州一周旅行をしたときのものです。
古い写真を懐かしく見るとともに、最近中津を訪ねられたM氏のお話し或は中津市の広報資料を見ると昔とは比べものにならないほど整備されているようで、その差に驚かされました。

久し振りに中津の写真を見て、東京にある福澤先生や塾関係の碑などを訪ねてみることにしました。
先ずは、草創期の塾舎の移り変わりということで、塾のホームページを見ると、明治3年に東京府から三田にあった島原藩中屋敷の敷地の貸下げを受け、三田の塾舎に移る(翌4年)前は、「前期鉄砲洲」、「前期新銭座」、「後期鉄砲洲」、「後期新銭座」の4期に分けることができるそうです。

「前期鉄砲洲(1858~)」:築地鉄砲洲の中津藩奥平家中屋敷(現中央区明石町、聖路加国際病院の立地)で蘭学塾としてスタート。なお、この地では杉田玄白、前野良沢等が「解体新書」を解読した処でもあり、現在「慶應義塾発祥之地」記念碑と日本医史学会・日本医学会・日本医師会連名の「日本近代文化事始の地」記念碑が建てられています。

  余談ですが、塾発祥之地の記念碑がある近くの聖路加病院の敷地には、「浅野内匠頭中屋敷跡」、「芥川龍之介生誕之地」の碑があります。また杉田玄白等が「解体新書」にしたがって実際に腑分けをした小塚原の刑場跡は、南千住駅の近くで回向院(両国の回向院の別院)が建てられており観臓記念碑もあります。

「前期新銭座(1861~)」:福澤先生が最初の渡米以来、懇意にしていた木村摂津守の世話で芝新選座(現港区浜松町)に家屋を借りたが正確な所在地を示す記録が残っていないそうです。なお、先生は翌年の1862年(文久2年)には幕府の文久遣欧使節の通訳方として渡欧されているそうです。
「後期鉄砲洲(1863~)」:参勤交代制度が緩やかになり江戸詰めの藩士数が縮小され屋敷にゆとりができたため再び奥平家中屋敷に戻られたようです。
 
「後期新銭座(1868~)」:鉄砲洲の海岸一帯が外国人居留地となったため、芝新選座に場所を買い取り移転し塾の名称も「慶應義塾」と定められた。この後期新銭座の塾舎が上野戦争時のウェーランド経済書講読の地であり、かつて慶應義塾の塾舎が所在した旨の記念碑が建てられています(この地は、後に近藤真琴が開いた蘭学塾「攻玉社」の校舎になり、その後区立神明小学校を経て現在は「港区エコプラザ」という公共施設になっています。港区浜松町1-13-1)。
 

現在の三田の山、我々が通った昭和年代と異なり、「幻の門」のあった場所も立派な建物が建ち、「幻の門」は山の上のほうに移動されています。





なお、この坂の途上に三角形の大きな石が幾つもありますが、「馬留石」で、かつて福澤先生も馬をつないだそうです。
 
また、坂を上がりきった処が、福澤邸があった場所で、福澤公園と呼ばれ、「福澤先生終焉之地」であることを示す石碑が建ち、旧邸の基礎の一部も残っています。


福澤先生の御墓は、奥様とご一緒に麻布の善福寺(浄土真宗、港区麻布1-6-21)にあり、23日が雪池忌であることは知られていますが、この善福寺は立派な勅使門を持ち天然記念物の逆さ銀杏ある寺院です。

1859年には初代の米国公使タウンゼント・ハリスの公使館にもなり攘夷論者の襲撃も受けていますが、東京の「虎の門」の名の由来が、この寺にあったとか、杉並の善福寺池もかつてこのあたりには寺の奥の院があったためであると聞くと当時の寺領の広大さに驚きます。






なお、福澤先生はお亡くなりになった後、一旦は増上寺の子院でもある上大崎の常光寺(浄土宗、品川区上大崎1-10-30)に埋葬され、その後に善福寺に移葬されたため、常光寺には「福澤諭吉先生永眠之地」という記念碑があります。また常光寺には幼稚舎の創立者である和田義郎氏の記念碑もあります。


文中の由来等は、wikipedia、マイナビ、各ホームページ、猫の足あと、現地の由来書等を参考にしました。文中に誤りがある場合は筆者の責任です。
                                                                        
寄稿者 : 梅川芳宏 (S37 法)

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