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2025年11月30日日曜日

テニス同好会:第10回紅白戦結果報告

 年末恒例となりました紅白戦も節目の10回目となりましたが1126日青空の下で過去最大の18名が参加、紅白に分かれ熱戦が繰り広げられました。

2025年11月26日(水)第10回紅白戦@六中テニスコート


今回も接戦となり終盤まで「抜きつ抜かれつ」の状況が続きました。

紅組チーム平尾
白組チーム下島

【果たして結果は?】

  • 合計取得ゲーム数27-25で紅組(チーム平尾)が僅差で勝利!
  • 紅組の通算:4勝3敗3引き分けとなりました。

白組(チーム下島)は来年の雪辱を期し日々の鍛錬に励みます




試合の後は近くのレストランにて今年最後の懇親会でテニスを離れての楽しい時間をすごしました。

                                (記 テニス同好会 世話役 下島)


玉川上水を歩く その3

20251118

玉川上水を歩く その3

 

1117()に「玉川上水を歩く その」で、明治大学の正門前から三鷹駅南口まで、参加者6名で約11キロを3時間強かけて無事歩き終えました。引き続き「その」では、三鷹駅北口から西武国分寺線の鷹の台駅まで約10Kmを歩く予定です。場合によっては、その手間の駅でリタイアすることも。その場合は、玉川上水から最寄り駅まで徒歩20分ぐらいかかるので、バスで中央線の最寄り駅を目指します。

 


今回の歩きは、私達が暮らす武蔵野市を横断する形で、最初から最後まで玉川上水の流れを横目に見ながら、両岸に続く木立の中を進むので、少しはハイキング気分を味わうことができるのではないかと思います。それぞれのご都合に合わせて、途中でお帰りになっても、途中からのご参加も、歩きの後の恒例となった反省会だけのご参加でも、大歓迎です。皆様のご参加を心からお待ちしております。

 

「玉川上水を歩く その3」のコース

三鷹駅=国木田独歩の碑=ぎんなん橋(線路跡)=境浄水場=桜橋・国木田独歩の碑=境水衛所跡=千川上水分岐=名勝境界の碑=桜堤歩道橋=梶野橋=桜樹接種碑=砂川用水=平右衛門橋=真蔵院=小金井公園=陣屋跡=御成の松跡=行幸松=海岸寺山門=小平桜橋(新堀用水)=平櫛田中彫刻美術館=小川水衛所跡=lovers’ lane=鎌倉街道=武蔵野線玉川上水立坑=小平ふれあい下水道館=西武国分寺線鷹の台駅

 

 

開催日時:2026121()     集合場所:JR吉祥寺駅南口(公園口)改札前

集合時間:09:30(9:38発総武線で三鷹まで)

解散時間:15:00(解散後、吉祥寺の「ビアホール戎」で反省会)

服装・持ち物:歩きなれた靴・帽子・飲み物・念のため雨具・防寒具?

ご参加申し込み:117()までにお願いいたします。

 

連絡先:ハイキング同好会世話人 渡部 明子 090-6135-5358

                                            watanabeag@aol.com1

2025年11月28日金曜日

散策の会:旧東海道北品川宿を散策結果報告

 (武蔵野三田会第26回散策)                                  

旧東海道北品川宿を散策

20251110日に参加者10名で旧東海道第一番目の宿場町品川宿のうち北品川宿を散策いたしました。品川宿は京浜急行の北品川駅から青物横丁駅周辺までですが、南北に分かれており今回散策する北品川宿は北品川駅から目黒川までの間になります。

 

9時半に吉祥寺に集合し、井の頭線の渋谷駅を経由してJR品川駅へ。京急に乗り換え、散策出発の北品川駅に到着。いよいよ散策出発です!

先ずは品川宿入り口にある観光マップを見ながら全員集合写真をパチリ。

 最初の史跡は見落としがちな問答河岸跡です! ここの伝承は以下のようなものです。


徳川三代将軍家光は沢庵禅師に帰依しており、品川に寺域5万坪、寺領500の東海寺を建て政治面でも意見を問うなど厚遇しています。ある日家光が東海寺を訪ね帰城する時に河岸迄見石送りに来た禅師に「海が近いのに東海寺(遠海寺)とは是如何に」と禅問答をしかけた。これに対して禅師は「大軍を率いていても将軍(少軍)というが如し」と返したことから江戸市民がこの河岸を問答河岸と呼んだそうです。なお、沢庵禅師は「大根の漬物である「たくあん」を発明したことでも有名です。

次も見落とさないようにしたい土蔵相模跡です

 ここは品川の旅籠「相模屋」の跡で、この旅籠には時の大老井伊直弼を襲った桜田門の変(1860年)や高輪にある英国公使館焼き討ち事件の際に勤王の武士達が集合した場所だそうです。なお「土蔵」を付しているのは相模屋の奥座敷が土蔵造りであったため俗称として「土蔵相模」と呼ばれていたとのことです。

街道を歩くとのあちこちに小さな松が植えられていましたが、昔の街道の松並木を復活させるべく東海道の他の宿場町(袋井・藤沢など)から寄贈されているようです。

 


ここで旧東海道を少し離れて、昔は海岸であった名残を示す屋形船や釣り船が係留されている運河(品川浦船溜)を横目で見ながら()(がた)神社(じんじゃ)・鯨塚へ向かいました。 この神社は寛政3年(1626年)に東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したことが始まりとされており一時期「洲崎弁天」とも呼ばれていたようですが、この一帯は安永3年(1774年)から天保5年(1834年)にかけて南品川宿の名主利田吉左エ門によって開拓されたことから利田新地と呼ばれていたため、当社も利田神社と称するようになったとのことです。そしてここの神社には鯨塚(鯨碑)」があります。これは寛政10年に品川沖に長さ9間<約16.5m>、高さ7尺<約2m>の大鯨が迷い込み地元の漁師が追い込んで捕えたので評判になり浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で十一代将軍家斉が上覧したそうです。そしてこの鯨の背骨をこの地に埋めて「鯨碑(通称鯨塚)」を建てたとのことです。

 


利田神社と鯨塚の直ぐお隣が唯一陸上のお台場(御殿山下台場)跡です。 ペリー来航のあと江戸湾(東京湾)の防衛のため8個のお台場(石垣で囲まれた正方形ないし五角形の様式砲台)が創られましたが、この「御殿山下台場」は唯一陸上に造られた台場です。現在は小学校が建てられていますが、その敷地を地図で見ると五角形の台場の面影を残しています。なお小学校建設の前には灯台があり、その灯台の形をした記念碑が校門前に設置されています。記念碑の土台の石垣は旧お台場の石垣の一部だそうです

 再び旧東海道に戻って本陣跡に向かう途中に、ここが品川宿であることを示す品川宿石碑がありました。

また法禅寺一心寺養願寺など由緒あるお寺もありましたのでお参りしました。


法禅寺は文明開化の品川らしい煉瓦塀がある珍しいお寺ですが、東海道三十三観音霊場31番札所でもあり境内には鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた石作りの供養塔(板碑 秩父山の青石造り)や天保の大飢饉で亡くなった人たちを祀る供養塔(流民叢塚碑)や品川区指定の天然記念物大公孫樹の木がありました。なお、ここは品川小学校発祥の地でもありました。

 


一心寺は桜田門の変で有名な井伊直弼が開基で、創建当時は僧侶ではなく修験者が管理していたとのことです。また品川の不動堂と呼ばれ成田山新勝寺の分身の不動明王がご本尊で、毎月28日が縁日でほうろく灸(素焼きの皿を裏返して頭に乗せ灸をする)が体験することが出来るようです。

 


養願寺通じる道には「虚空蔵横丁」の碑が建っていました。虚空蔵菩薩は丑年・寅年の方々の守り本尊ですが「虚空蔵」とは「宇宙のような無限の知恵と慈悲が収まっている蔵」を意味し虚空蔵菩薩は人々の願いを叶えるために知恵・記憶力・知識をその蔵から出して授けてくれるのでボケ防止を願うことが出来るとのことでした。

 

品川宿本陣跡(聖蹟公園)に到着、ここは明治天皇が明治元年(1868年)東幸の折、この品川の本陣に宿泊したことから昭和13年(1938年)に公園になった際に聖蹟公園と名付けられた。なおこの公園には珍しい「ラジオ塔(街頭ラジオ)」がありました。TVの初期に駅などにテレビが据え付けられ皆で見物する街頭テレビがありましたがラジオが珍しい時期にも同じことが起こっていたのですね。

 

ここでちょうどお昼になったので昼食を取ることにして予約してある街中華「一品楼」にうかがい、それぞれがお好みの品を注文しました。しっかりと量もあり美味しい食事でした。ただ残念なことは食事が終わってみると天候が急変して雨が降り出したことです。暫く雨宿りをさせてもらいましたが雨模様の天候に変化が無さそうでしたので午後からの散策は寄木神社・荏原神社等を飛ばして品川神社・東海寺を主体に散策することにし、すこし小降りになったところで再出発しました。

 


品川神社: 平安時代末期の文治3年(1187年)に源頼朝によって創建された歴史ある神社で徳川家康が関ケ原の戦いに出陣するときに戦勝祈願をした神社でもあります。御祭神は海上交通安全と祈願成就の天比理乃咩命(アメノヒリノメノミコト)、宇賀之売命(ウカノメノミコト=お稲荷様)、素戔嗚命(スサノオノミコト)です。

この神社の見所はまず神社正面に立っている双龍の鳥居」です。昇り龍と降り龍が鳥居の柱に彫られていて東京には3か所(ここ品川神社と阿佐ヶ谷にある馬橋稲荷神社及び高円寺にある高円寺の境内稲荷神社)にしか無い珍しいものです。また関東随一と言ってもよい大きな富士塚があります。なお富士塚の前には「ぶじかえる」の蛙の石像があります。


神社の拝殿の横にはミニ千本鳥居を持つ阿那稲荷神社の上社と下社があります。上社は千本鳥居の先にあり「天の恵みの霊」が祀られており、階段を下りた下社には狐に囲まれた「地の恵みの霊」が祀られています。ここには霊水でお金や印鑑を洗うと家業繁栄する一粒万倍の泉がありましたが今回は皆さん慎み深くお金を洗った人はいませんでした。

また、この神社の裏手には自由民権運動の指導者である板垣退助夫妻の墓所があります。この墓所のある場所は東海寺の塔頭だった高源院の土地ですが、高源院が世田谷の烏山に移転した時に域外墓地として現地に残したものだそうです。歴史上の重要人物の墓地ですから神社の裏ではなくもう少し確りした場所にあればと思いました。

その他にも東海道随一の賑わいを見せた品川宿らしく庖丁塚や浅間神社、猿田彦神社などの各種の碑や境内社などがあり、当日は七五三参りのご家族や観光客などで賑わっていました。

 


品川神社を後にして東海寺を目指しますが東海寺の墓所に向かう道の入り口に官営品川硝子製造所跡(近代硝子工業発祥の地、品川区指定史跡)記念碑が建てられていました。近代ガラス工業は明治6年(1873年)に、ここ東海寺の境内に創設された興業社によってスタートしたとのことです。

興業社は明治9年(1876年)に工部省に買収され官営になり、明治18年(1885年)には民間に払い下げられたが明治25年には経営不振から解散したしたとのことです。なお官営当時のレンガ造りの工場の一部が犬山市の明治村に移築されているとのことです。

 東海寺(萬松山東海寺)と沢庵禅師 徳川三代将軍家光は東海寺を創建し、その開山に沢庵禅師を迎えている。沢庵(宗彭)禅師は兵庫県(但馬国)出石の生まれ、修行を積み慶長14年(1606年)には京都大徳寺の住職にもなっている。一時期江戸幕府を批判し山形に流罪となったが二代将軍秀忠の死後に流罪を解かれ江戸にもどり家光から絶大な信頼を得た。沢庵は禅・仏教だけでなく書・和歌・茶道・剣道・兵法・医学など幅広い教養人だったようです。

東海寺は寺領500石・境内約47千坪を有した大禅林だったとのことです。元禄7年(1694年)に火災にあったが五代将軍綱吉とその母桂昌院によって再建されたそうです。現在の東海寺はかつての塔頭玄性院(元臨川院)が東海寺の名称を継いでいるとのことです。
東海寺の墓地はお寺の境内から少し離れた所にありますが、その墓地には右手の沢庵宗彭墓や賀茂真淵(本居信長や平田篤胤等と共に四大国学者に一人)・井上勝(日本の鉄道の父)・渋川春海(天文学者、囲碁棋士、日本で初めて地球儀を造る、別名安井算哲)左の島倉千代子などの墓がありました。なお島倉千代子墓前には彼女の命日が2013118日であり、丁度2日前が13回忌の命日の当たるためでしょうか演歌歌手達の献花が在りました。


 雨は治まったようでしたが、今回の散策はここで終了し解散といたしました。お疲れ様でした!


PHOTO STUDIO


八つ山口から入りました


問答河岸の碑と由緒書き



土蔵相模の駒札


将来の街道の松を育てる


利田神社に向かいます



利田神社



             新しい鯨塚と鯨塚の由緒書

           法禅寺の各種供養塔と区の天然記念物の公孫樹

聖蹟公園(本陣跡)の碑



                 聖蹟公園(本陣跡)を散策する皆さんと街頭ラジオ塔

               品川神社鳥居と昇り龍・降り龍




品川神社本殿

境内社 稲荷神社(上社)の千本鳥居




千本鳥居の先には上社の社







一粒万倍のご利益を持つ下社の社


板垣退助夫妻の墓標
自由民主党が建てた記念碑


史蹟である沢庵禅師の墓への入り口

沢庵禅師の墓(史蹟)


国学者賀茂真淵の墓入り口

賀茂真淵の墓(史蹟)



天文学者渋川春海の墓(史蹟)



島倉千代子の墓




今回雨のため散策できなかった寄木神社、荏原神社と家嗇稲荷神社について事前に確認したときの写真がありますので参考までに載せておきます。

 

寄木神社は、灯台の役目をした「河童狛犬(頭の上が火をともすため窪んだお皿になった狛犬)」とガラス越しで見にくいが「鏝絵(漆喰(シックイ)をつかって鏝(コテ)で天照大御神・天鈿女命・猿田彦命が描かれている)」

荏原神社は、弘化元年(1844年)建築という社殿の大屋根から見下ろしている龍神

家嗇稲荷神社(カショクイナリ)は、品川区の天然記念物に指定されている銀杏の木




           河童狛犬; 頭に(窪みがあります)


鏝絵(コテエ)






      

                        大屋根から見下ろす龍神

天然記念物の銀杏の木


                                                                                                          










                                                             文および写真:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)