今回の散策にご参加頂いた皆さん |
吉祥寺からJR中央線神田駅乗り換えで上野駅に全員無事到着、不忍口から上野のお山へ第一歩。見慣れた上野公園の筈なのに、こんなところにも史跡があったのかと「寛永寺総門の‘黒門’跡」に驚き第1号! ともあれ先ずはお上りさんよろしく西郷さんにご挨拶とばかりに全員集合してパチリ。続いて西郷像の直ぐ後ろに存在しているにもかかわらず、ほとんどの人が存在を知らない「彰義隊の墓」へ向かいました。
今年の4月25日の日本経済新聞に東京芸大の小川名誉教授が書かれた記事によれば、この彰義隊のお墓は彰義隊生き残りの隊士が建てたもので、その中心になった人が小川教授の祖父小川興郷(オガワオキサト)氏で代々小川家がお墓を守ってきたが2003年に東京都に移管されたとのことです。
天海僧正毛髪塔 |
光秀が山崎の戦の後に討たれたとされているが、京都宇治には戦いのあと光秀を匿ったという伝承を持つ神社や寺があること、比叡山には俗名を光秀という僧の記録があり光秀が討たれて亡くなったとされる天正10年(1582)以降に光秀の名前で寄進された石碑があるなど山崎の戦以降も生存していたとする生存説や伝承があり、更には徳川家にとって大切な日光に明智平があり天海が名付けたといわれていること、家光の乳母は光秀の重臣斎藤利三の子供の春日局であること、家光の子の家綱の乳母も光秀の重臣溝尾茂朝の孫である三澤局であること、天海の墓所が光秀の居城があった近江坂本にあることなどだそうです。
次の花園稲荷神社・医薬祖神五條天神社へ向かう途中で、古事記や日本書紀にも登場する百済の学者で日本に論語・千字文などを伝え朝廷に仕えた「王仁博士の顕彰碑」に感心したり、京都の清水寺を模した舞台を持つ清水観音堂で「秋色桜(しゅうしきさくら)」や「月の松」を見物しました。
王仁博士の顕彰碑を見る皆さん |
秋色桜 |
月の松 |
固有名詞を持つ桜「秋色桜」の由来は、元禄のころ日本橋小網町の菓子屋の娘でお秋という13歳の子が花見客で賑わう桜の様子を「井戸端の桜危なし酒の酔い」と詠み寛永寺の貫主輪王寺宮に絶賛され有名になり以来この桜を秋色桜と呼ばれるそうです。
「月の松」は広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれている丸く月のような枝を持つ松で清水観音堂の舞台から眺めると不忍池の弁天堂が円の中心にきます。
花園神社の階段 |
花園稲荷神社は赤いい鳥居がズラッと並びその下の階段を下って参拝に向かう姿が特徴的で、元は忍岡稲荷神社の名称だったそうです(石窟の上に建っていたことから「穴稲荷」とか「お穴さま」の俗称で呼ばれることもあったようです)。創建は不明ですが承応3年(1654)に天海大僧正の弟子が廃絶していた社を再建し上野の山の守護神にしたとのことです。幕末の上野戦争の最後の激戦地となり焼失したが明治6年に篤志家によって再建され花園稲荷神社と改名したそうです。境内の奥にある小さな社は、寛永寺が建立されるときに、この忍岡に住んでいた古狐(弥右衛門狐)が棲むところをなくすことを憐れんで洞窟を作りお祀りしたと伝わっているとのことです。
お穴さま入口 |
子狐と親狐 |
医薬祖神五条天神社 |
お穴さまと天神社を後にして上野東照宮に向かいました。
東照宮を散策する皆さん |
池田家黒門 |
東京都美術館のレストラン「ミューズ」では、予約不可なため少々待たされましたが4人~6人のグループに分かれて各々好きな食事を選んで体力回復です。
旧博物館動物園駅 |
東叡山寛永寺(天台宗別格大本山 台東区上野桜木1-14-11)
寛永寺根本中堂 |
山号は「東の比叡山」をあらわし、寺号は「寛永年間の創建」を表しています。後に四代将軍家綱の霊廟が造営されたことにより将軍家の菩提寺を兼ねることになったようです。また山主に皇族(輪王寺宮)を迎え入れたことにより江戸時代には格式・規模において我が国随一の寺院だったそうです。当初の根本中堂は上野戦争で焼失してしまい、現在の根本中堂は明治12年に川越喜多院のものを移築再建したものだそうです。
今回は根本中堂に上がって中の荘厳な諸仏(薬師如来を日光・月光菩薩が囲みさらに十二神将が周囲を固めていました)を参拝してきました。境内では寛永寺の見所である旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦や徳川綱吉霊廟勅額門・徳川家綱霊廟勅額門(2門とも重要文化財)を観てきました。
旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦 |
徳川綱吉霊廟勅額門 |
徳川家綱霊廟勅額門 |
子規庵 |
について「我に20坪の小園あり、園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控えたり。場末の家まばらに建てられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翻る様もいとゆたかに眺めらる。」と記しているそうです。(子規庵拝観料500円ですがまたまた団体割引で400円、中学生以下は無料 団体もよきかな!)
この子規庵は昭和20年(1945)4月の戦災で焼失しましたが、昭和25年(1950)にほぼ当時のままの姿に再建され、現在に至っているとのことです。子規が書いている「小園(庭)」も散策してみました。
このお寺は長享元年(1487)創建され、寛文4年(1664)に六代将軍徳川家宣の生母長昌院が遺言によって当寺に葬られたことから将軍家ゆかりの寺となった。また家宣の弟である松平清武が当寺に隠棲したため将軍家宣がたびたび訪ねたことから門前の音無川に架けられた橋に「将軍橋」と名がつけられたそうです。現在は川はは無いようですが道路から山門に入るところに石の橋があり、よく見ると「将軍橋」と彫られていましたので見落とさないようにチェックしました。上野戦争の時には彰義隊の屯所にもなったとのことです。なお、境内には安土桃山時代に造られたという大きな大黒天(不二大黒天)の石像や昭和の大横綱双葉山の墓がありましたのでお参りしてきました。
羽二重団子本店 |
この店のホームページによれば、子規の句に「芋坂の団子屋寝たりけふの月」、「芋坂も団子も月のゆかりかな」、「名物や月の根岸の串団子」などの句があるようです。また漱石の「吾輩は猫である」の中に猫のセリフとして「~芋坂に行って団子を食いましょうか、先生明日この団子を食ったことがありますか、奥さん一ぺん行って食ってご覧、柔らかくて安いです~」と書いており、久保田万太郎も「~わたくしに、根岸まで行く用があったので、その帰り、そうだ、ここまで来たものだと、芋坂の羽二重団子を仕入れ~」と書いているそうです。その他にも、船橋聖一や司馬遼太郎なども作品の中でこの店や団子について書いているそうです。
このお店に向かって右側の道が「芋坂」で、上野戦争の時には戦に敗れた彰義隊の戦士が駆け下りてきたというエピソードが残っているそうです。
土曜日・良い天候・外国人も含めて人出が多いという「賑わいの3拍子が揃った上野公園を20人を超える団体での散策でしたが皆さんのご協力で迷子になる人もなく無事に散策を終了することが出来ました。有難うございました。また次回もよろしくお願い致します。
ーーー散策ギャラリー 上野・根岸編ーーー
(ギャラリ―には一部当日以外の撮影日の写真も含まれています)
最初の史蹟「黒門跡」 |
黒門の説明 |
彰義隊の墓の説明板 |
土中に隠されていたお墓 |
清水観音堂 |
お祀神は千住観世音 |
観音堂と月の松を下から見る |
五条天神に向かう皆さん |
蓮の花のような天神社の手水舎 |
東照宮唐門:これから中に入ります |
東照宮透塀 |
東照宮社殿 |
最長老 ひと休み |
さて、お昼も食べて再出発 |
寛永寺旧本坊表門と根本中堂の鬼瓦 |
現在の根本中堂の鬼瓦 |
昭和の名横綱「双葉山」のお墓 |
羽二重団子の由来 |
羽二重団子の由来を観る |
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