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2023年6月8日木曜日

ご存知「八百屋お七」由縁の「吉祥寺」など駒込を散策

ご存知「八百屋お七」由縁の「吉祥寺」など駒込を散策

13人もの参加者全員の日頃の行いの良さでしょうか線状降水帯を伴う集中豪雨と梅雨入り寸前の僅かな晴れ間、6月5日(2023年)に実施できた駒込散策は無事に終了いたしました。

JR駒込駅に集合し先ずは日本を代表する桜である染井吉野桜の発祥の里を示す豊島区立記念公園に向かい、改めて江戸の人々の職人技に感心しました。

さ~あ、いよいよ散策開始です!先ずは六義園(文京区駒込6 都立庭園)です。

広大な六義園
この公園は、徳川5代将軍綱吉が側用人であった柳澤吉保に広大な六義園約46千坪の土地を与えたことにより、下屋敷が造られ、そこに元禄8年(1695)から7年の歳月をかけて元禄15年に庭園が造成された。この庭園は桂離宮と同方式の回遊式築山泉水庭園で紀州和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝、中国古典の景観などが映し出されているとのことです。六義園の六義とは和歌の六つの表現形式で中国の「詩経」にある詩の分類に従ったもののようです。



明治に入って三菱の岩崎弥太郎が所有し東京市に寄贈され昭和13年から一般公開されるようになったそうです。国の特別名勝に指定されています。約200株のサツキと約15種1000株のアジサイがあり、「初夏の六義園~サツキと和のアジサイを楽しむ~」が開催されているはずでしたが、残念なことに今年は気候の関係でサツキは一部に残影を残すのみでしたがアジサイは日本庭園をバックに満開状態で久々に美味しい空気を満喫する自由散策1時間でした。


今回は、はやばやとお昼にすることにしました。イタリアンで~す。お店はチョットした広場にあるトラットリア・イタリヤ文京店です。個々人のオーダーでしたが皆さんパスタを選択。ビール党はまづ一杯! キャベツにアンチョビ・ガーリックというシンプルですが美味しいパスタの注文が多かったようです。


トラットリア・イタリヤ文京店で楽しそうに食事を待つみなさん

散策を再開し、駒込富士神社(文京区駒込5-7-20 祭神;木花咲耶姫<コノハナサクヤヒメ>)に向かいます。

社伝によれば天正元年(1573)に本郷村の名主が
富士山に見立てた塚を登る皆さん
夢に「木花咲耶姫」の姿を見て富士浅間神社を勧請し富士大権現として創建したとのことです。その後、敷地が加賀藩の上屋敷の敷地になったため寛永5~6年頃(1628~29)に現在地に遷座され名称も駒込富士神社となったそうです。この地には当時富士塚と呼ばれる古墳がありその古墳の上に土を盛って本殿が造られています。斜面には富士山から運んだ溶岩が配されています。

此処の富士塚は江戸の富士講の中でも有名な富士塚で、特に町火消の間で深く信仰されており境内には纏(マトイ)を彫った石碑が多く在ります。

余談ですが、縁起の良い初夢で有名な「一富士二鷹三茄子」は、この富士塚の周辺に鷹匠屋敷があったこと、また、この地は茄子が名物で富士塚の山開きの土産に駒込茄子が売られていたことに由来するとの説もあるようですから謹んでお参りしてきました。

ちょっと寄り道して東京都の指定史跡の駒込名主屋敷(高木家の屋敷、文京区本駒込3-40-3)を見学することにしました。

東京都指定史跡「駒込名主屋敷」
高木家は大坂夏の陣後、豊臣方の残党としてこの地に亡命し、当時伝通院の領地であった駒込の開拓を許され名主を務めたそうです。現在の屋敷は享保2年(1717)築とのことで、玄関は格式の高い式台付きの玄関で、ここで町人の訴えや争いごとの仲裁を行ったため「名主様玄関裁き」と言われたそうです。なお、現在居住中のため外観のみの見学になりました。

よく見ると亀ですね!
名主屋敷のお隣が天祖神社(文京区本駒込3-40-1 祭神;天照大神 旧称;駒込神明宮)です。
社伝によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原泰衡を攻めるために向かう途中或る霊夢を見てこの地に立ち寄ったところ松の枝に大麻(伊勢神宮のお札)が掛かっていた。頼朝は、それを戦勝の前触れとして喜び天照大神をお祀りしたことが創建だそうです。他の神社ではあまり見たことのない亀石などがありました。


諏訪山吉祥寺(文京区本駒込3-19-17 曹洞宗 都心のお寺とは思えない広大な境内)

長禄年間(1457~60)、太田道灌が江戸城の築城して

いる時に、ある井戸から「吉祥増上」の文字が彫られた印(金印とも銅印とも云われている)が発見された。これを縁起として吉祥寺を創建した(今のパレスホテルのあたりに建てた)。その地が諏訪神社の社地であったことから山号を「諏訪山」とされた。その後江戸城の拡張に伴って今の水道橋辺りに移ったが明暦の大火(1657)によって焼失して現在地(駒込)に移った。武蔵野市の吉祥寺は駒込に移ってきた吉祥寺の門前が火除け地に指定されたため門前町の住人が移住させられ、新田開発をして旧名の「吉祥寺」を称したものです。

また江戸期には境内に後の駒澤大学となる学寮「栴檀林(せんだんりん)」が創られ幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の大研究地で常時1,000人余りの学僧がいたそうです。境内には江戸時代に建てられた精緻な彫刻が施された学僧の図書館「経蔵(きょうぞう)(現在修理中のようでシートがかけられ見ることが出来ませんでした)」があるほか二宮尊徳の墓碑、函館戦争で戦った榎本武揚・明治の小説家川上眉山・森鴎外の妻の実家赤松家などの墓や順天堂大学の供養塔などがありました。なお、天保の改革時の南町奉行鳥居燿蔵の墓もあるそうですが見つけられませんでした(この人は当時の北町奉行遠山金四郎に比べてあまり評判は良くなく、甲斐守の称号なので「妖怪(燿甲斐)」と悪口をたたかれています)。


吉祥寺には、もう一つ「八百屋お七と吉三郎」の話があり、「お七・吉三郎の比翼塚」があります。
本郷丸山の八百屋の娘お七は、天和2年(1682)の火事で家が焼け吉祥寺に避難していた。そこで寺小姓の吉三(あるいは吉三郎)と恋仲になるが家が新築されたので別れ別れになってしまう。お七はもう一度火事になれば恋しい吉三に会えると思い家に火をつける。放火の罪に問われたお七は鈴ヶ森の処刑場で火あぶりの刑に処せられるというものですが、実は「お七という娘が放火して処刑された」という以外は相手の名前・避難したお寺・ストーリーは色々あり、どれが本当のことかわからないのですが井原西鶴がお七の処刑から3年後に書いた好色五人女の中の話がほぼ上記の内容で、最も有名です。今回の散策では八百屋お七に関して、お墓のある圓乗寺とお七の供養をするほうろく地蔵のある大圓寺も尋ねました(後述)。


吉祥寺を出て直ぐに目赤不動尊(文京区本駒込1-20-20 天台宗 大聖山東朝院南谷寺)です。
比叡山の南谷にいた万行和尚(熱心な不動明王の信仰者)が或る夜夢のお告げで伊賀国(現在の三重県)の赤目山に行くように
と言われ赤目山の山頂で祈願したところ天から一寸二分程の黄金の不動明王像を授かった。その後江戸の現在地付近に庵を結び大きな不動明王を彫刻し、黄金の不動明王を体内に安置(腹籠り)赤目不動尊の名を称し多くの参拝者が訪れていた。三代将軍家光が鷹狩に訪れた時に、赤目不動に立ち寄り江戸鎮護五不動の一つにしようと目黒不動・目白不動に因んで目赤不動と名を改めさせたそうです。

駒込土物店跡
なお、南谷寺のお隣に樋口一葉の師であった小説家半井桃水(なからいとうすい)のお墓がある曹洞宗の養昌寺がありますので、一寸お参りしていきました。なお、次の大圓寺に向かう道すがら江戸三大市場(神田・千住・駒込)の一つで東京都の旧跡指定を受けている駒込土物店跡(こまごめつちものだなあと)があるので見学してきました(ここ天栄寺は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る際に休憩をとった場所で、そこへ近所の人が新鮮な野菜を求めて集まったことがきっかけで市場に発展したようです。土物とは大根・人参・牛蒡など土の付いた野菜のことだそうです。)。

大圓寺(文京区向丘1-11-3 曹洞宗 金龍山大圓寺)です。
このお寺は、慶長2年(1597)に神田に創建され慶安2年(1649)に現地に移ってきたそうです。このお寺にはお七由縁の「焙烙地蔵尊(ほうろくじぞう)」が祀られてい

焙烙地蔵尊

ます。このお地蔵さんは業火に焼かれた八百屋お七を供養するもので熱した焙烙を頭に乗せ火あぶりになったお七の灼熱地獄を、身をもって実感するという地蔵の姿を表わしたものだそうです。頭痛・眼病・耳鼻の病に霊験があるといわれています。なお、墓所には砲術家の高島秋帆(たかしましゅうはん 板橋区の高島平はこの高島秋帆が訓練した場所です。)と小説家の斎藤緑雨(さいとうりょくう)のお墓がありました。

大圓寺から「於七坂」の異名がある坂を下ったところに圓乗寺(文京区白山1-34-6 天台宗南縁山正徳院圓乗寺)があります。

於七坂を下ります


このお寺には住職が建てたお七のお墓を中央に、右に初代岩井半四郎が、お七を演じた縁で建てたお墓、左に近隣の有志が建てたお墓と三基のお墓が並んでいます。
このお寺に建っている文京区の教育委員会の案内板では、お七は菩提寺の圓乗寺に避難してきたことになっており、吉三郎は無頼の徒で恋人の寺小姓は山田佐兵衛という名前になっています。このように八百屋お七に関しては色々な異説があるようです。


いよいよ最後の散策地白山神社(文京区白山5-35-1 祭神は菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命)です。天暦年間(947~957)の創建と古い歴史がある神社で、ここ「白山」

まずはご挨拶
という地名の由来の神社で、「加賀一の宮」の白山神社を勧請したとのことです。当初は今の本郷一丁目あたりに建てられていたようですが二代将軍秀忠の代に一旦今の小石川植物園の処に移され、更に五代将軍綱吉が将軍につく以前の館林候時代の屋敷を造成するため再度現在地に移されたそうです。これが縁で綱吉と生母の桂昌院の篤い帰依を受けていたそうです。
境内に紫陽花が3,000株も植えられており「紫陽花まつり(今回の散策は残念ながら祭の前です)」もあり、その期間中は境内随一と言われる紫陽花の見所である本殿奥の富士塚に登ることもできるそうです。また境内に八幡太郎義家(源義家)が奥州征伐の途中に戦勝を祈願した際、旗をかけた桜の木(白旗桜)があり江戸三桜に数えら
れていた。天然記念物にも指定されていたが枯死してしまい現在は二代目の桜だそうです。
なお、ご利益は菊理姫命が縁結び・商売繁盛、伊弉諾命が安産祈願・子授け、伊弉冉命が長寿・子孫繁栄とのことです。

白旗桜
       富士塚に咲く紫陽花



今回の散策にご参加頂いた皆さん

以上で散策を終え無事帰路につきました。今回は15,000歩~20,000歩の散策 お疲れさまでした。

文および写真:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)