*高田馬場跡の碑(新宿区西早稲田3-1・2・12・14)
江戸時代の武士の調練用馬場ですが堀部安兵衛の決闘助太刀のばとしての方が有名で
はないでしょうか。
江戸時代の武士の調練用馬場ですが堀部安兵衛の決闘助太刀のばとしての方が有名で
はないでしょうか。
*堀部安兵衛の顕彰碑(新宿区西早稲田3-5-43)
堀部安兵衛は忠臣蔵の赤穂浪士としても又高田馬場での叔父 の決闘を助太刀し勇名
を馳せたりその時見染められて堀部家の養子になったりと講談師の飯の種ですね。
を馳せたりその時見染められて堀部家の養子になったりと講談師の飯の種ですね。
平将門の乱に際し俵藤太が創設・以前は早稲田大学のキャンパス内にあった・境内社が3社あり当時は大隈重信も毎朝参拝していたそうです。なお境内には何代目かの「太田道灌駒繋ぎの松」があります。
*甘泉園公園(新宿区西早稲田5丁目)
尾張徳川家の拝領地であったが、安永三年(1774年)に初代清水家(御三卿の一つ)の下屋敷がおかれた。
回遊式の庭園で、ここから涌く泉の水がお茶に適していたことから甘泉園と名付けら
れた。明治以降は相馬子爵邸の庭園だったが昭和13年に早稲田大学が大学付属施設と
して譲り受けた。戦後に大学の建物増築にあたり今のキャンパス内にあった水稲荷神
社の敷地を購入するにあたり東京都に売却し水稲荷も当地に移った。昭和44年に新宿
区に管理が移管され現在は区立の公園になっている。
回遊式の庭園で、ここから涌く泉の水がお茶に適していたことから甘泉園と名付けら
れた。明治以降は相馬子爵邸の庭園だったが昭和13年に早稲田大学が大学付属施設と
して譲り受けた。戦後に大学の建物増築にあたり今のキャンパス内にあった水稲荷神
社の敷地を購入するにあたり東京都に売却し水稲荷も当地に移った。昭和44年に新宿
区に管理が移管され現在は区立の公園になっている。
御三卿とは将軍家に後嗣がない場合に将軍の後継者を出せるための家。元々は
尾張・ 紀州・水戸の三家が将軍の後継者を出す役割だったが八代将軍吉宗が尾張と
対立して いたため新たに追加した家柄で田安家・一橋家・清水家です。
*早稲田大学キャンパス(坪内逍遥記念館など)
坪内逍遥記念館は16世紀イギリスの劇場「フォーチュン座」を模して建てられたよう
です。正面の「Totus Mundus Agit Historionem」はラテン語で「全世界は劇場なり」
という意味でシェークスピア時代の劇場グローブ座に掲げられていた看板の句だそう
です。演劇を専門的に扱う博物館で逍遥の古稀とシェークスピア全集40巻の翻訳事業
の完成を記念して昭和3年に建設され新宿区の有形文化財にもなっています。
です。正面の「Totus Mundus Agit Historionem」はラテン語で「全世界は劇場なり」
という意味でシェークスピア時代の劇場グローブ座に掲げられていた看板の句だそう
です。演劇を専門的に扱う博物館で逍遥の古稀とシェークスピア全集40巻の翻訳事業
の完成を記念して昭和3年に建設され新宿区の有形文化財にもなっています。
*夏目漱石生誕の地(新宿区喜久井町1)
*宗参寺(新宿区弁天町1)
大石内蔵助が学んだ軍学山鹿流の祖である山鹿素行の墓があります。また新宿区の旧名の一つ牛込区の名称の由来である牛込地区(早稲田から日比谷公園ぐらいまでの地域のようです。)を束ねる武家である牛込氏の菩提寺でもあり、当三田会の会員である牛込良彦氏はこの牛込氏の子孫です。 山鹿素行は会津若松に生まれ、6歳で江戸に出てきて9歳で林羅山の門下に入り朱子学を学び、その後甲州流の軍学・神道・和歌など様々な学問を学んだが官学である朱子学を批判したことから赤穂藩にお預けの身となった。赤穂藩においては藩士の教育を行った。赤穂事件以来山鹿流が実践的な軍学との評判が立ち江戸に戻った。後代の吉田松陰などにもその教えが影響しているとのことです。
夏目漱石住居かつ終焉の地に彼の生誕150年を記念して平成29年に建てられた記念館で漱石山房の書斎や居間などが再現さてしてあり、ブックカフェもあり休憩もできます。またこの建物の裏手は漱石公園になっており猫塚などがあります。
江戸期の和算の達人関孝和の墓があります。
*多聞院(新宿区弁天町100)
松井須磨子の墓があります。
*泉鏡花の住居跡(新宿区南榎町22)
泉鏡花は紅葉の門下生で小説の高野聖や婦系図で有名、小説以外にも戯曲や俳句も手掛けています。妻は元神楽坂の桃太郎という芸妓ですが、紅葉は二人の関係を絶対に許さず「女を捨てるか師匠を捨てるか」と迫ったため二人は離別し紅葉の死後二人は結婚しています。この経験が婦系図の湯島天神の場の下敷きになっているとのことです。
小浜藩の下屋敷跡であり解体新書で有名な蘭学者
杉田玄白生誕の地でもあります。寛永16年に江戸城
本丸の火災で家光が子の下屋敷に難を逃れたときに
周りに竹矢来を造り警護し、その後もこれを記念
して塀を造らず竹矢来にしたため江戸の名物の一つ
なり現在の地名矢来町の語源になった場所でもあります。
杉田玄白生誕の地でもあります。寛永16年に江戸城
本丸の火災で家光が子の下屋敷に難を逃れたときに
周りに竹矢来を造り警護し、その後もこれを記念
して塀を造らず竹矢来にしたため江戸の名物の一つ
なり現在の地名矢来町の語源になった場所でもあります。
*古今亭志ん朝旧邸(新宿区矢来町)
五代目志ん生の実子である三代目志ん朝が早稲田からこの矢来町に転居た。落語家としては初めて外車に乗ったり立派な家を建てたりしたため風当たりも強かったが入門して5年で真打になるなど人気・実力共にたかったが63歳と若くして亡くなっています。現在は一般の人の住居とのことですから静かに眺め通るだけです。
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