レトロな路面電車で世田谷の悲恋伝説を巡る
2024年11月26日に10月の雨で延期していた23回目の散策「レトロな路面電車で世田谷の悲恋伝説を巡る」を実施しました。今回は参加者8名だが曇りがちながら時折日が差すと汗ばみかねない散策日和でした。
いつものように9時半に吉祥寺駅集合の後、井の頭線で渋谷へ、渋谷で清水さんが合流し田園都市線で最初の目的地三軒茶屋へ。近年急速に様変わりした三軒茶屋ですが先ずはキャロットタワー下の竹園山最勝寺教学院へ向かいます。ここでは江戸五色不動尊の一つ「目青不動尊」をお参りしました。
これまでに目黒にある瀧泉寺の「水」を表す「黒」の目黒不動、三ノ輪にある永久寺の「地」を表す「黄」の目黄不動、本駒込にある南谷寺の「火」をあらわす「赤」の目赤不動を訪ねてきましたが、今回は「空」をあらわす「青」の目青不動尊です。
 |
チシャノキ(苣木) |
最勝寺教学院の創建は、応長元年(1311年)であるとの説もあるようですが世田谷区教育委員会によれば、このお寺は、慶長9年(1604年)に江戸城紅葉山付近に創建されその後移転を繰り返し明治41年(1908年)に現在地に移転したとのことです。なお、ここは小田原城主の大久保家の菩提寺ですから徳川時代には位の高いお寺だったと思われます。本堂の本尊は阿弥陀如来で、札所である不動堂の本尊がこの目青不動と呼ばれる不動明王で両脇には閻魔大王と奪衣婆が安置されていました。また境内には世田谷名木百選に選ばれた「チシャノキ(苣木)」と立派な銀杏の木がありました。
幕末安政の大獄で仇敵同士「大老井伊直弼vs幕末の思想家吉田松陰」の旧跡(豪徳寺・松陰神社)と世田谷区に残る鷺草に関わる常盤伝説の旧跡を巡りました。
三軒茶屋からはレトロな路面電車(東急世田谷線)の散策切符(何回乗ってもOKの一日乗車券)を購入し、最初の散策目的がある「宮の坂駅」目指して出発!です。
先ずは世田谷八幡宮(祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)に御参りしました。
 |
世田谷八幡の土俵と子供たち |
この神社は陸奥守であった源八幡太郎義家が奥州の清原家衡を平定した「後三年の役(1087~1094年)」の帰路に世田谷で豪雨に遭い天気の回復を待つため数日間滞在した折に宇佐八幡宮の分霊を招請し、部下の士卒に奉納相撲をとらせたことから現在も土俵があり奉納相撲がとられる珍しい神社です。また常盤伝説に関係する鷺草苑があるので花は時期的に無理ですが豪徳寺のお隣なので御参りに行ってみました。近くの幼稚園(保育園?)の園児が大勢来ていて池の鯉に歓声を上げたり土俵に上って記念撮影をしたりしていました。また七五三の御参りの方も多くみえていました。
世田谷八幡から5分ほどの距離に井伊直弼の墓と招き猫の豪徳寺(曹洞宗)があります。

 |
豪徳寺の松並木 |
近年豪徳寺は招き猫見物のインバウンド客で有名ですが、桜田門外の変で知られる井伊直弼の彦根藩井伊家の江戸の菩提寺でもあります。参道の立派な松並木を通って豪徳寺に向かうと、やはりインバウンドの見物客が一杯です。三重塔もある広い境内なのですが見物客を掻き分けるように進んでお参りしながら奉納された招き猫を見に行きました。招き猫は本来願いが成就したときに奉納されるものですが、豪徳寺の奉納された猫の数と猫を購入する人の数は異常です。 |
奉納された招き猫 |
何千体もあると思われる奉納猫、その猫を購入しようとすると1時間も並ばないと購入できないのではないでしょうか。一方彦根藩井伊家の江戸の菩提寺という「寺」本来の役目である墓所には4~5人もいない状態なので静かに井伊直弼の菩提を弔うことができます。
 |
豪徳寺山門前 |
一口メモ 豪徳寺の招き猫伝承)
東京には招き猫発祥の地が豪徳寺以外にも2か所あります。一つは18回散策の会(’22年11月実施)で訪ねた浅草の今戸神社で、もう一つが新宿区落合南長崎にある自性院です。でも豪徳寺が一番有名でかつ立派です。
豪徳寺の招き猫伝承は、江戸の初期彦根藩主井伊直孝が鷹狩の帰りに近くを通りかかったときに寺の飼い猫が手招きをするので、寺で休むことにしたところ寺に入ったとたんに空が曇り激しい雷雨となった。直孝は濡れずに済んだ、縁起がいいということで、この寺を井伊家の菩提寺にし、伽藍なども整備したとのことです。なお直孝の歿後に直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」に因んで寺号を豪徳寺に改められ招猫観世音菩薩が祀られ招き猫の伝承も広まったとのことです。(直孝が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをした時に三毛猫が手招きをするので猫に近づいたところ先程雨宿りをしていた木に落雷があり助かったので菩提寺にして招猫観世音菩薩を祀られたという説もあるようです。)桜田門外の変で水戸浪士らに殺害された時の大老井伊直弼はこの井伊家の子孫ですから一族と共に、ここに祀られています。大名家の墓としてよく保存されていることから国の指定史跡になっています。
豪徳寺の招き猫の正式名称は「招福猫児」と呼ばれ願いが成就したときに奉納されるとのことです。右手を挙げていますが左手には小判がありません。金銭に執着することを嫌った武家ゆかりの招き猫のため、つまり招き猫は機会を与えてくれるが結果(=小判)までついてくるわけではなく機会を生かせるかは本人次第ということのようです。
(招き猫に関して)
招き猫は右手を挙げているのは金運、左手は人を招くと言われています。手の高さは耳辺りが多いのですが耳を超えて高く上げている猫もあり挙げている手が高いほど遠くの福や人を招くそうです。
また洋の東西を問わずオスの三毛猫は幸運を招くとされています。また招き猫の地色は伝統的には白ですが黒(魔除け・除災招福)、赤(病除け)、ピンク(恋愛成就)、青(交通安全・学業向上)もあるようです。
豪徳寺のお隣は世田谷城跡公園(東京都の史蹟になっている)です。
世田谷城は小田原北条氏に仕えた武蔵の吉良氏の城塞で、吉良氏の館は現在の豪徳寺辺りにあったと言われています。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原北条氏征伐の時に廃城になっていますが現在も土塁と空堀が残っており公園になっていました。
世田谷城跡公園を後にして世田谷ぼろ市の開催や代官屋敷のある世田谷線上町駅に向かい駅前の街中華「信華」で昼食をとりました。食事の後は再び世田谷線に乗って松陰神社前駅へ!
松陰神社

 |
松陰神社入り口 |
吉田松陰は安政の大獄で処刑(処刑は15回散策の会‘21年10月実施の伝馬町牢獄)されたが4年後に高杉晋作ら門人によって小塚原回向院(19回散策の会‘23年3月実施の三ノ輪の回向院)の墓から当地(長州藩主の別邸があった)に改葬され明治
15年に門下生たちによって神社が建立されたそうです。境内には松陰先生他烈士墓所、復元された松下村塾、門下生たちが寄進した灯籠(
26基)や維新後に徳川家から謝罪のために寄進された灯籠と水盤などもありました。
また松陰神社の隣には桂太郎本人の希望で建てられた彼の墓がありますが目立たないので案外知られていません。(桂太郎は鎌倉幕府に仕えた大江広元の子孫、長州出身で軍人かつ政治家で大蔵・外務・陸軍などの大臣を経験し総理大臣に3回就いている。)また松陰神社の境内の一角に鳥居と青銅の大きな記念碑が建っていて従来から何なのか気になっていましたが、今回判明しました。これは幕末から明治初期にかけて倒幕活動を推進し新政府の要職を歴任した廣澤真臣という人の墓所で、建っている記念碑は「神道碑」と呼ばれるもので国家に功績のあった人物を顕彰する役割があるもので明治天皇が建立を命じたもので廣澤真臣、大久保利通、岩倉具視、三条実美、木戸孝允など8人しかいないそうです。
松陰神社を参拝、桂太郎の墓所、廣澤真臣の神道碑を経て国士舘大学キャンパス横の勝国寺へ向かいました。
勝国寺
世田谷城の裏鬼門に当たり薬師如来を安置し鬼門除きを行うと同時に砦としての役割を果たしたとのことです。 ここには本堂に目が金色の不動明王が祀られており「目金不動」と云われているので目黒・目白・目赤・目黄・目青の五色不動プラス「目金」ということでお参りしてみました。
勝国寺の「目金不動」をお参りして世田谷市役所を横目に再び世田谷線世田谷駅に向かい若林駅へGO!
若林駅からは環七通りを駒留八幡神社に向かいます。
駒留八幡神社・常盤塚
駒留八幡神社は世田谷百景の一つに選ばれ、また名木百選指定の黒松があります。鎌倉時代に領主であった北条成願が八幡神社を勧請したいと願ったとき夢枕に神のお告げがあり、そのお告げに基づき自分が乗った馬が留まった場所に社殿を建立したことから駒留八幡と呼ぶようになったとの伝説をもつ神社です。また、この場所は吉良頼康が誤って自殺させた常盤姫を弁財天として祀り(厳島神社)、その胎児を若宮八幡として相殿とし祀った場所でもあります。

 |
常盤塚と世田谷区の由緒書き
|
駒留八幡をでて常盤塚に向かいました。常盤塚は常盤姫が自殺した場所あるいは墓とされる処で、荒れ果てた時代もあったそうですが現在は地元の有志たちによって塚が再建されています(世田谷区指定の史跡)。
常磐塚を訪れた後、世田谷線若林駅から、三度世田谷線に乗り終点の「高井戸駅」へ向かい、京王線に乗り換え吉祥寺へと戻りました。 今回は三軒茶屋駅から高井戸駅とレトロな世田谷線全線踏破でした。
(一口メモ 常盤伝説と吉良家)
(常盤伝説)
世田谷城の城主吉良頼康は、部下である奥沢城(世田谷城の支城で現在の九品仏にある浄真寺の場所)城主大平出羽守の娘「常盤姫」を側室にし、13人いた側室の内で最も寵愛していた。常盤姫が子供を身ごもると他の側室達が妬み、常盤姫が城中で一番の美丈夫と言われた内海掃部と密通しており子供も掃部の子供だと嘘の訴えを行った。頼康は怒り内海家を討ち常盤も城から追い出した。
常盤姫は信頼を失い城から追い出されたことを悲しみ自殺するが、その時身の潔白を示す遺書を書いて大切に飼っていた白鷺の足に結わえて実家の奥沢城に放った。しかし、たまたま奥沢城付近で狩りをしていた頼康が、その白鷺を打ち落として遺書を見て無実を知り常盤姫のもとに戻るが常盤姫とその胎児は既に息絶えていた。また白鷺が落ちた場所から一本の草が生え白鷺に似た花をつけていた。これが世田谷の鷺草と常盤姫の伝説で鷺草は世田谷区の区花になっているそうです。
今回は豪徳寺・松陰神社を軸にしながら、この伝説を基にして鷺草苑のある世田谷八幡宮、吉良の居城跡世田谷城址公園、常盤姫とその子を祀った駒留八幡神社、常盤姫が自殺した場所に建つ常盤塚を巡りました。
(吉良家)
鎌倉時代の清和源氏足利氏の当主足利尊氏の庶子を租とする家で、室町時代の名門の地位で幕府の要職を務めている。吉良家は「三河吉良」と「奥州(武蔵)吉良」に分かれ、三河吉良は更に西条・東条の両家に分かれた。東条吉良と奥州吉良は徳川に仕えて江戸時代にも残ったそうです。
忠臣蔵に出てくる吉良上野介は東条吉良の子孫だそうです。忠臣蔵事件の後、本家筋の三河吉良家は改易になったが分家の奥州吉良家は明治維新以降も残ったそうです。
秋日和の世田谷散策 PHOTO GALLERY
 |
三軒茶屋 到着 |
 |
三茶のランドマークタワー キャロットタワーを目指して |
 |
「目青不動尊」 最勝寺へ
|
 |
不動堂で不動尊を拝む |
 |
(左)奪衣婆、(中央)不動尊、(右)閻魔大王 |
レトロな東急世田谷線でGO!
 |
世田谷八幡宮本殿 |

 |
世田谷八幡宮の花手水 |
 |
世田谷八幡宮の力石 |
 |
豪徳寺の並木道
|
 |
豪徳寺三重塔 |
 |
豪徳寺山門 |
豪徳寺の三重塔には招き猫と十二支の動物が彫られていました


大老 井伊直弼の墓


松陰神社 松陰像

松下村塾のレプリカ 吉田松陰および烈士の墓所 |
やっと分かった廣澤真臣の神道碑 |
 |
桂太郎の墓
|

勝国寺の「目金不動尊」

駒留八幡神社とご神木

常磐塚とその由緒書
文および写真:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)