武蔵野三田会散策の会
第二の故郷三田の聖坂を歩いてみませんか
歴史館で入手した写真 |
高札は幕府から法令(ご法度、掟書)や罪人の罪状などを一般庶民に知らせる方法として板に書き街道沿いの宿場や橋のたもとなどに掲げたもので、これを掲げた場所が高札場と呼ばれました。
そこには斎海寺(浄土宗 周光山長寿院斎海寺)があります。斎海寺は元和7年(1621年)に創建され越後長岡藩主牧野家や伊予松山藩主松平家の江戸菩提寺でしたが、安政6年(1859年)に最初のフランス領事館となり、2年後には公使館となって明治7年(1874年)まで続いたそうです。本堂のあたりに領事館の建物があったようです。
なお、このお寺は更級日記に出てくる竹芝伝説(皇女と武蔵国の武士との恋愛物語)の竹芝寺の跡地に建っているとのことです。
(一口メモ:竹芝伝説の概要)
更級日記の筆者(菅原孝標女)が、父親が赴任地上総の国府から京へ帰任する旅に随行して武蔵野国に入ったところ竹芝という寺があり、その寺の起源を村の古老に聞くと以下のような恋愛物語の伝説がその寺の起源であった。
「この寺のある地帯は古くから「たけしば」と呼ばれた坂で、ここに住んでいた青年が京で、夜の間中火を燃やし宮中、后宮、東宮を警護する衛士の任についていた。青年が警護中に自分の生まれ故郷の武蔵野国の風景を懐かしみ早く帰りたいと独り言を呟いていたところ、帝の寵愛を受けている姫がその独り言を聞いて青年に自分を拐って男の故郷に連れていき生国の風景を見せろと命じた。青年は姫を背負って武蔵野国へ僅か七日七夜で到着した。一方宮廷は姫がいないので大混乱になり武蔵野国へ使者を追いかけさせた。使者は三か月もかかってようやく青年の処に辿りついたが、姫は、「宮廷には戻らない、青年とここで暮らすのが宿命であり後悔もしていない、彼や武蔵野国の人を咎めないでほしい、使者は早く帰って帝にその旨を奏上せよ」と命じた。使者が帰って報告すると帝は「しかたがない、竹芝の男に武蔵野国を預け与え納税の義務も免除し、その領土は姫に任せる」ということになった。青年は内裏のような家を造り姫と住み子宝にも恵まれた。やがて青年や姫も亡くなり屋敷はお寺になった。そのお寺がこの竹芝寺である。」
斎海寺のお隣の公園が亀塚古墳(土岐氏の下屋敷跡)のある公園です。
三田台公園から100mほど進んだところに正山寺があり山門脇に不浄のものは焼き尽くす炎の明王ともいわれる烏枢沙摩明王尊(ウスサマミョウオウ)という珍しいお名前の明王をお祀りしているのでお参りして厄除けをお願いしてきました。更にそのお隣の薬王寺には加賀の千代女が「朝顔に釣瓶取られてもらい水」と詠んだ井戸があるということなので訪ねてみました。お寺の水屋の井戸ですが確かに釣瓶井戸でしたし、またその周りには朝顔が花を咲かせていました。
現在の山門は当時檀家総代であった内閣総理大臣の高橋是清が発願して明治39年(1906)に寄進されたものだそうです。境内には港区の登録有形民俗文化財である「御化粧延命地蔵尊(通称「おしろい地蔵」とか「お化粧地蔵」などと呼ばれている)」がベビーパウダーで真っ白な姿で安置されています。
なおテレビ朝日の「じゅん散歩」という番組で紹介されていましたが山門の脇に1本の木に接ぎ木をして11種類の柑橘類を結実させる和尚さん自慢の木があり夏蜜柑・レモン・柘榴の3種類の実が生っていることを確認しました。秋の時期にはもっと種類多く実をつけているのではないでしょうか。ご興味があったら是非観に行いかれてはどうでしょうか?
(一口メモ:お化粧地蔵の由来)
江戸時代のある時、この寺の或るお坊さんが八丁堀の地蔵橋の畔にまるで捨てられているかのように転がっている泥まみれの石地蔵を見つけ寺に持ち帰り洗い流して出来る限り傷の手当てもしたが奇麗にならないので石地蔵の顔に白粉を塗ってお祀りしたところお坊さんの顔にあった痣が消えた。これを聞いた多くの女性たちが白粉をもって石地蔵をお参りするようになりやがて女性に限らず沢山の人が患っているところを治していただこうと自分の幹部と同じところに白粉を塗って祈願するようになったとのことです。最近は指先にマニキュアを塗る人も出てきているようです。
なお、地蔵菩薩の真言は「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」とのことなので、これを唱えながら白粉(ベビーパウダーが用意されています)を塗って祈願すると良いのかもしれませんね。
聖坂の戻り更に降っていくと亀塚稲荷と供養塔(新田義貞一族の供養)があります。
境内には「弥陀種子板碑」5基がある。中世の関東地方に多く見られる阿弥陀信仰に基づく供養塔で、秩父青石(緑泥片岩)で出来ている。年紀名が確認できる港区指定有形文化財3基と風化して年紀名が解読不能の2基(港区登録有形文化財)で、新田義貞一族(後醍醐天皇の建武新政樹立の立役者の一人で、後に足利尊氏が叛旗を翻すと南朝の総大将として戦い戦死した。)の霊を弔うための碑とのことのようです。
(一口メモ:東中野の功運寺)忠臣蔵の吉良家の墓や討ち入り時に死んだ吉良家の家臣の碑や浮世絵の歌川豊国、作家の林芙美子、旗本奴の水野成之などの墓がある大きなお寺です。
湿度も高く気温30度(?)の中の散策を終え昼食をとりに塾のファカルティクラブを目指しました。
幸いファカルティクラブ(塾の職員と塾員が利用できる施設)は空いており冷房の効いた席でゆっくりとランチ・ビール・コーヒーとそれぞれ好みの食事を楽しみました。
ランチを楽しんだ後、塾の歴史展示館(国の重要文化財になっている旧図書館)に貴重な展示物がありますので、みんなで引き続き足を運びました。
なにが貴重かというと一つは2023年夏に全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)で塾の高校野球部が107年ぶりに2回目の優勝、もう一つは2023年秋に大学の野球部が東京六大学野球の秋のリーグ戦で優勝し更に東京六大学の代表として出た明治神宮大会で優勝し、高校・大学共に日本一となり、この日本一の優勝旗2本が並んで歴史展示館に飾られているのです。こんな貴重な光景は簡単に見ることが出来ません。これを見逃すわけにはいかないと全員でゆっくりと堪能してきました。
散策ギャラリー 三田聖坂編
先ずは札の辻からスタート! |
元和キリシタン遺跡にて
亀塚観世音菩薩も祀られていました |
亀塚(古墳?)・大名屋敷跡でもあります
お隣の三田台公園は華頂宮邸宅跡・伊皿子貝塚
正山寺と薬王寺
幽霊坂を下って玉鳳寺へ
玉鳳寺はTVでも紹介されていました
亀塚稲荷神社・供養塔
慶應義塾史展示館