武蔵野三田会散策の会
第二の故郷三田の聖坂を歩いてみませんか
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歴史館で入手した写真 |
東京もいよいよ梅雨入りと言われ実施予定日の週間予報ではずっと小さいけど「傘」マークがついていましたが参加者の日ごろの精進の良さでしょうか実施前日に「晴れ」の予報に変わりました。
吉祥寺に7人がそろい渋谷へ、渋谷から通い慣れた(?)バスで慶應義塾大学前。先ずは札の辻に向かって出発!
現在の「
札の辻」は、高層ビルに囲まれていますが江戸初期には高札場と芝口門が設けられていた場所であり、高輪の大木戸が出来るまでは江戸正面入り口であったところです。特にこの芝口門は東側が直ぐ江戸湾に接していることから房総の山々も望むことが出来、一日眺めても飽きない景色ということで日暮御門とも呼ばれていたそうです。現在も歩道橋の上からの眺めは近代的な眺めながらチョットしたものでした。先ずここで一同揃って記念写真を撮りました(歩道橋に上るには隣接のビルのエスカレータが利用できました。高齢者ですから文明の利器を利用しましょう)。
(一口メモ)
高札は幕府から法令(ご法度、掟書)や罪人の罪状などを一般庶民に知らせる方法として板に書き街道沿いの宿場や橋のたもとなどに掲げたもので、これを掲げた場所が高札場と呼ばれました。
「札の辻」の交差点から50m程離れたビル群の挟間に草木に覆われた緑の斜面を背景とする広場があり、こんなところに遺跡があるのだろうかと思いますが
元和キリシタン遺跡があります。ここは徳川幕府三代将軍家光が元和9年(1623年)にキリスト教徒50人を処刑した
場所だそうです。刑執行後は空き地になっていたが、後に智福寺が建てられ昭和41年(1966年)智福寺が練馬区の石神井に移転するまでは智福寺の境内だったそうです。なお、元和キリシタン遺跡の石碑の横にある巨石は高輪の大木戸の石垣に使われていたもののようです。また石神井の智福寺には塩かけ地蔵尊が祀られているそうです。元和キリシタン遺跡に祈りをささげた後、この辺りは坂の多い丘陵地帯ですから地域住民のために造られたエレベータを利用して聖坂のたかみに上がりました。
そこには
斎海寺(浄土宗 周光山長寿院斎海寺)があります。斎海寺は元和7年(1621年)に創建され越後長岡藩主牧野家や伊予松山藩主松平家の江戸菩提寺でしたが、安政6年
(1859年)に最初のフランス領事館となり、2年後には公使館となって明治7年(1874年)まで続いたそうです。本堂のあたりに領事館の建物があったようです。
なお、このお寺は更級日記に出てくる竹芝伝説(皇女と武蔵国の武士との恋愛物語)の竹芝寺の跡地に建っているとのことです。
(一口メモ:竹芝伝説の概要)
更級日記の筆者(菅原孝標女)が、父親が赴任地上総の国府から京へ帰任する旅に随行して武蔵野国に入ったところ竹芝という寺があり、その寺の起源を村の古老に聞くと以下のような恋愛物語の伝説がその寺の起源であった。
「この寺のある地帯は古くから「たけしば」と呼ばれた坂で、ここに住んでいた青年が京で、夜の間中火を燃やし宮中、后宮、東宮を警護する衛士の任についていた。青年が警護中に自分の生まれ故郷の武蔵野国の風景を懐かしみ早く帰りたいと独り言を呟いていたところ、帝の寵愛を受けている姫がその独り言を聞いて青年に自分を拐って男の故郷に連れていき生国の風景を見せろと命じた。青年は姫を背負って武蔵野国へ僅か七日七夜で到着した。一方宮廷は姫がいないので大混乱になり武蔵野国へ使者を追いかけさせた。使者は三か月もかかってようやく青年の処に辿りついたが、姫は、「宮廷には戻らない、青年とここで暮らすのが宿命であり後悔もしていない、彼や武蔵野国の人を咎めないでほしい、使者は早く帰って帝にその旨を奏上せよ」と命じた。使者が帰って報告すると帝は「しかたがない、竹芝の男に武蔵野国を預け与え納税の義務も免除し、その領土は姫に任せる」ということになった。青年は内裏のような家を造り姫と住み子宝にも恵まれた。やがて青年や姫も亡くなり屋敷はお寺になった。そのお寺がこの竹芝寺である。」
斎海寺のお隣の公園が亀塚古墳(土岐氏の下屋敷跡)のある公園です。
ここは上野国沼田城主土岐氏が下屋敷の敷地と
して拝領した場所で円墳型の古墳らしい塚があります。土岐氏は、この地が更級日記に出てくる竹芝寺の故地であることや塚の頭頂部に酒壺がありここに出入りする亀を地元の人々が神と崇めていたが一夜の風雨で酒壺の亀が石になったという伝説に興味を持ちその由来を伝える碑を建てており(亀山碑)、亀塚の頂上にこの碑が残っています。大名が邸内に建てた石碑として貴重なものだそうです。この亀塚は古くから古墳とする定説があったが、かつて慶應義塾大学も参加してここが古墳か否かの調査が行なわれたそうです。確かに古墳時代の塚であることは地質学的に確認できたが遺骨とか副葬品なども出ず残念ながら古墳かどうかは判然としなかったとのことです。なお太田道灌がここに物見やぐらを造っていたという伝説もあるようです。物見台も造られていましたが大きな木が密集していたのと周囲のビルで何も見えませんでしたが沢山の紫陽花が咲いていました。
亀塚の公園のお隣も公園(三田台公園)になっており、そこが
華頂宮(侯爵)邸跡と伊皿子貝塚になります。
華頂宮家は、皇族である伏見宮の子孫が臣籍降下して華頂宮(侯爵)家として創設されました。その邸宅跡が現在この三田台公園になっています。ここには伊皿子貝塚や旧華頂宮家跡の井戸(今も枯れずに水が出ます)がありました。この場の貝塚は厚さが1m近くあり相当多くの人々が石器時代からここに住んでいたのだろうと想像できます。当時の竪穴式住宅も再現されていました。なお、ここの貝塚は前回の散策時に訪ねた港区立郷土歴史館に展示されていた貝塚です。
三田台公園から100mほど進んだところに
正山寺があり山門脇に不浄のものは焼き尽くす炎の明王ともいわれる烏枢沙摩明王尊(ウスサマミョウオウ)という珍しいお名前の明王をお祀りしているのでお参りして厄除けをお願いしてきました。更にそのお隣の
薬王寺には加賀の千代女が「朝顔に釣瓶取られてもらい水」と詠んだ井戸があるということなので訪ねてみました。お寺の水屋の井戸ですが確かに釣瓶井戸でしたし、またその周りには朝顔が花を咲かせていました。
薬王寺からは塾の方へ聖坂を下りながら途中の幽霊坂(周りにお寺が多く在ったためこのように呼ばれていたようです)にある
玉鳳寺(梧棲山玉鳳寺 曹洞宗)を訪ねました。
玉鳳寺は安土桃山時代の末期、慶長4年(1599)に江戸八丁堀に創建されたようですが、江戸城の拡張工事のため三田が寺町に指定された折に幽霊坂にある現在地に寛永12年(1635)に移転してきたようです。
現在の山門は当時檀家総代であった内閣総理大臣の高橋是清が発願して明治39年(1906)に寄進されたものだそうです。境内には港区の登録有形民俗文化財である「御化粧延命地蔵尊(通称「おしろい地蔵」とか「お化粧地蔵」などと呼ばれている)」がベビーパウダーで真っ白な姿で安置されています。
私も神経痛が出ている腰にパウダーを塗ってきましたが、気のせいか痛みが和らいでいます。
なおテレビ朝日の「じゅん散歩」という番組で紹介されていましたが山門の脇に1本の木に接ぎ木をして11種類の柑橘類を結実させる和尚さん自慢の木があり夏蜜柑・レモン・柘榴の3種類の実が生っていることを確認しました。秋の時期にはもっと種類多く実をつけているのではないでしょうか。ご興味があったら是非観に行いかれてはどうでしょうか?
(一口メモ:お化粧地蔵の由来)
江戸時代のある時、この寺の或るお坊さんが八丁堀の地蔵橋の畔にまるで捨てられているかのように転がっている泥まみれの石地蔵を見つけ寺に持ち帰り洗い流して出来る限り傷の手当てもしたが奇麗にならないので石地蔵の顔に白粉を塗ってお祀りしたところお坊さんの顔にあった痣が消えた。これを聞いた多くの女性たちが白粉をもって石地蔵をお参りするようになりやがて女性に限らず沢山の人が患っているところを治していただこうと自分の幹部と同じところに白粉を塗って祈願するようになったとのことです。最近は指先にマニキュアを塗る人も出てきているようです。
なお、地蔵菩薩の真言は「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」とのことなので、これを唱えながら白粉(ベビーパウダーが用意されています)を塗って祈願すると良いのかもしれませんね。
聖坂の戻り更に降っていくと亀塚稲荷と供養塔(新田義貞一族の供養)があります。
亀塚稲荷は聖坂にある小さな神社で明治期までは功運寺という寺の境内社だったが功運寺の
東中野移転の際に地元民の希望で当地に残ったとのことです。ご神体は亀の形をした霊石だそうです。その昔、この辺りに出没する亀が一夜にして石と化したことから里人がこの亀の霊を祀り祠を設けた。後に太田道灌がこの地に物見台(燈台)を置くにあたりこの祠を守護神として社を創建しご神体をこの霊亀としたと伝えられているとのことです。先ほどの亀塚古墳と一体のものだと思います。
境内には「弥陀種子板碑」5基がある。中世の関東地方に多く見られる阿弥陀信仰に基づく供養塔で、秩父青石(緑泥片岩)で出来ている。年紀名が確認できる港区指定有形文化財3基と風化して年紀名が解読不能の2基(港区登録有形文化財)で、新田義貞一族(後醍醐天皇の建武新政樹立の立役者の一人で、後に足利尊氏が叛旗を翻すと南朝の総大将として戦い戦死した。)の霊を弔うための碑とのことのようです。
(一口メモ:東中野の功運寺)忠臣蔵の吉良家の墓や討ち入り時に死んだ吉良家の家臣の碑や浮世絵の歌川豊国、作家の林芙美子、旗本奴の水野成之などの墓がある大きなお寺です。
湿度も高く気温30度(?)の中の散策を終え昼食をとりに塾のファカルティクラブを目指しました。
幸いファカルティクラブ(塾の職員と塾員が利用できる施設)は空いており冷房の効いた席でゆっくりとランチ・ビール・コーヒーとそれぞれ好みの食事を楽しみました。
ランチを楽しんだ後、塾の歴史展示館(国の重要文化財になっている旧図書館)に貴重な展
示物がありますので、みんなで引き続き足を運びました。
なにが貴重かというと一つは2023年夏に全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)で塾の高校野球部が107年ぶりに2回目の優勝、もう一つは2023年秋に大学の野球部が東京六大学野球の秋のリーグ戦で優勝し更に東京六大学の代表として出た明治神宮大会で優勝し、高校・大学共に日本一となり、この日本一の優勝旗2本が並んで歴史展示館に飾られているのです。こんな貴重な光景は簡単に見ることが出来ません。これを見逃すわけにはいかないと全員でゆっくりと堪能してきました。
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先ずは札の辻からスタート! |
元和キリシタン遺跡にて
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亀塚観世音菩薩も祀られていました |
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土岐氏が建てた碑 |
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ここに神祠(小さな社殿)があったことを示す石碑 |
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亀塚はこの様にこんもりした小山です |
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物見台の周りには紫陽花が満開 |
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竪穴式の住宅レプリカもありました |
正山寺と薬王寺
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正山寺の烏枢沙摩明王像 |
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薬王寺に今も残る釣瓶井戸 |
幽霊坂を下って玉鳳寺へ
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山門は明治期の総理大臣で当山の 総代でもあった高橋是清の寄贈 |
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TVでも紹介された11種の柑橘類 の実をつける木はこんな木でした |
亀塚稲荷神社・供養塔
慶應義塾史展示館
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二本の優勝旗 |
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大学の校旗(各校にあったが大学と幼稚舎のものしか残っていないとのことです) |
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米国の少女と写した有名な写真 |
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福澤先生が米国から持ち帰った乳母車 |
文および写真:散策の会会員 梅川芳宏(1962法)