旧新橋停車場と高輪をぶらり
――高輪には風変わりな妖怪もいました――
先日日本最初の鉄道駅である旧新橋停車場を見物しながら少し足を延ばして高輪をぶらりと歩いてみようと出かけました。高輪というと忠臣蔵で有名な泉岳寺や大石良雄外十六忠烈の跡が真っ先に浮かびますが、敢えて忠臣蔵関係を外して回ってみることにしましたが、高輪は急な坂の多いところでした。
プラットホーム |
鉄道の始点を示す零表示 |
田町・品川間も軍部が反対した結果、陸路を通れず海上に堤を造って(築堤)通すことにしたそうです。高輪ゲートウエイ駅周辺の開発時に、この築堤の一部が発見され後世に残すことになったが現在は工事中なので見ることが出来ません。
高輪大木戸跡(港区高輪2-19)
東海道から江戸府内への出入口(まさに江戸のゲートウエイですね)として設けられた大木戸の跡。大木戸は明け六つに開かれ暮れ六つに閉じられ治安の維持及び交通規制の役割をはたしていた。伊能忠敬はここを全国測量の起点としたとのことです。江戸には四谷の大木戸などもありましたが現存しているのはこの高輪の大木戸だけのようで国の史跡に指定されています。正面2段の石垣 |
東禅寺(臨済宗;海上禅林佛日山東禅興聖禅林寺;港区高輪3-16-16)
慶長14年(1609年)に現在の港区赤坂に創建され、寛永13年(1636年)に現在地に移転したそうです。当時、寺の前が東京湾に面していたことから海上禅林と呼ばれ多くの大名家も檀家になっていたとのことです。江戸末期には西洋人の宿舎に当てられており安政6年(1859年)には日本最初のイギリス公使館(公使ラザフォード・オールコック)が置かれました。このため攘夷派に狙われ安政7年(1860年)に公使付き通訳(日本人)が門前で殺害され、翌年の1861年(文久元年)には水戸藩浪士の襲撃(第一次東禅寺事件)をうけ書記官などが負傷、翌々年の文久2年にも襲撃(第二次東禅寺事件)を受けイギリス水兵2名が殺害されています。また、幕命とはいえ異国人を住まわせたということで“穢れた寺”と非難され有力な檀家が多く離れたこともあったようです。
このお寺の境内には公使館として使われた建物や立派な庭園があり2010年に国の指定史跡になっていますが残念なことに境内は完全非公開ということで見ることはできませんでした。
承教寺(日蓮宗;長祐山承教寺;港区高輪2-8-2)
正安元年(1299年)に現在の港区虎ノ門に創建され江戸時代初期の承応2年(1653年)に現地に移転したとのことです。このお寺の住職から3人の大本山池上本門寺貫主を出している名門寺院でした。
妖怪「狛件(こまくだん)」 |
英一蝶の墓 |
高輪皇族邸(港区高輪1-14-1)
美智子上皇后様お手植えの薔薇 (プリンセス・ミチコ)四季咲きの薔薇 |
今年4月26日に改修が終わった旧赤坂御所(仙洞御所)に上皇ご夫妻は移られています。
なお、門の脇に上皇后が植えられた薔薇(プリンセス・ミチコ;四季咲きのオレンジ色の薔薇)があります。