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2020年5月17日日曜日

寄稿【葛飾北斎由縁の地(在東京)を巡る】


葛飾北斎由縁の地(在東京)を巡る

 
葛飾北斎は、誰もが知る江戸期の文化文政時代を代表する浮世絵師です世界的にも著名な画家で、生涯3万点を超える作品を発表していますが、一方で奇行が多い人物でもあったようです。金銭に無頓着で、衣装にも金を使わず、室内もごみの山で、その中で絵を描いていたということです。 
また雅号30回も変えており、転居も93回したうえ、料理は一切作らずに買ったり貰ったりしていたそうです。93回という転居も片付けるのが面倒というのが唯一の理由とさえ言われています。正に鬼才ですね。
北斎には二人の息子と三人の娘(四人との説もあるようです)が居たそうですが三女の「お栄(号は応為)」は、北斎と同じ浮世絵師として有名で吉原の風景などを描いていた事は知っていましたが、北斎が美人画では娘の応為に敵わないと云っていたとのことを今回知り改めて驚きました。

北斎は宝暦10年(1760年)9月に本所割下水(この割下水が流れていた場所は、現在両国駅近くの「北斎通り」になっています。この通りには「すみだ北斎美術館」が建てられていますし、唯一相撲協会が管理している神社で歴代横綱の碑がある野見宿禰神社もあります。)に百姓の子として生まれたとのことです。

 






幼くして幕府御用達の鏡磨師中島伊勢の養子になった
(中島伊勢の住居跡が両国本所松坂町の吉良上野邸跡
の前にあります。)とのことですが、家督を実子に譲
り家を出て、実家に戻り19歳の頃浮世絵師勝川春章の
門下生になったそうです。
しかし、密かに狩野派の画法を学んでいたことが分か
り破門されたとのことです。
                          


この頃の北斎は、それほど画力は無かったみたいですが、その後柳嶋の妙見さま(開運北辰妙見大菩薩:柳嶋妙見山法性寺 墨田区業平577)に21日間お参りし、満願の日の帰り道で落雷に遭って失神、その直後に画の開眼をして、めきめき有名になったとのことです。電気ショックで何か脳の神経細胞に異変が起こったのでしょうかね(?)。なにか不思議な事件ですね。




この柳嶋の妙見さま(お寺)には初代歌川豊国の筆塚があり、また北斎・岸田劉生・棟方志功・渡辺清巴などのギャラリーもあります。お寺のギャラリーですが、かなりの数の版画や肉筆画があり十分鑑賞の価値があります。お近くに行かれま
したら是非立ち寄ってみてください。有料ですけど。また、このお寺の手前にある北十間川と横十間川が合流する地点に掛かる十間橋からの東京スカイツリーの眺め(川面に移る逆さツリー)が素晴らしく格好の撮影ポイントになっていました。
 







北斎の終焉の地は浅草の遍照院(金龍山遍照院:現在の浅草6丁目にある浅草寺の子院の一つです。なお江戸期の浅草寺には寺を囲んで30数ヶ所の子院があったとのことです。)の長屋(狸長屋と呼ばれていたようです。)だそうで、当時は、お寺が境内に長屋を建てて貸し出していたので、その内の一軒を借りていたようです。


遍照院は北斎が住んでいた当時とまったく同じ場所に立っているとのことですが、現在の遍照院には北斎について一切の記録も記念碑的なものもないとのことです。なお、北斎の辞世の句は「人魂で行く気散じゃ夏野原」というものだそうです。 







北斎は当時としては異常に長命で91歳でなくなったとのことで、北斎のお墓は同じ浅草の誓教寺(瑞亀山弘願院誓教寺、浄土宗、台東区元浅草469)にあり、「画狂老人卍之墓」と彫られていました。
 


 












                                           【寄稿】 梅川芳宏(S37法)