平成30年3月29日(木) 満開の桜のなか13名参加で実施されました。
*江戸城外堀跡地下展示室(虎の門駅11番出口のエレベータ乃至階段を上がる)
文部科学省構内に残る石垣が江戸城外堀の一部で、
寛永13年(1636年)に全国に大名を動員して
築いたものです。
地下鉄虎の門駅と文部科学省の新庁舎連絡路内に発掘された石垣が見える展示コーナーが設けられています。
*江戸城外堀跡溜池櫓台(千代田区霞が関3-8 虎の門三井ビル前)
城の防御や物見のために建てられた櫓の土台(基礎)が残っています。櫓は層塔型が主流で機能的には石落としや狭間です。
*金刀比羅宮(港区虎ノ門1-2-7 主祭神:大物主神、崇徳天皇)
社殿の複合施設として高層オフィスビル(虎の門琴平タワー)があり近代的(?)な社殿です。万治元年(1660年)讃岐丸亀藩の藩主京極高和が三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請した。その後、延宝7年(1679年)に江戸藩邸の移転に伴って現在地に遷座された。
権現造りの」社殿は戦災に遭って焼失し、現在のものは昭和26年に再建されたものだが東京都の歴史的建造物に選定されています。
社殿正面の銅製の鳥居には風水で天空の四方を守るとされる四神の霊獣(清龍、朱雀、白虎、玄武)が飾られており、珍しい鳥居です。
なお、社殿の右側には縁結び・復縁にご利益のある「結(むすび)神社」と「喜代住稲荷神社」があり、金刀比羅宮とあわせて有名なパワースポットだそうです。
なお、愛宕山に向かう途中に「乃木希典の住居跡」の碑が建っている場所があります。
*愛宕神社(港区愛宕1-5-3)
家康の命で慶長8年に江戸の防火のために火伏の神(勝軍地蔵菩薩)を祀った。寛永11年1月に秀忠の三回忌として増上寺参拝の帰路に家光が山上の梅を見て梅の花を馬で取ってくる者はいないかと云い讃岐丸亀藩の曲垣平九郎が馬で階段を上り桜の枝をとり将軍に捧げたことで有名。また桜田門外の変に際し浪士の集合場所でもあり桜田烈士愛宕山遺跡碑がある。
愛宕山は階段を上った右手に天然の山の証である三角点があり天然の山としては23区内で一番高いとのことです。
なお、勝軍地蔵菩薩は現在愛宕神社の虎の門側隣にある真福寺(江戸時代オランダ使節の宿舎にもなった寺)に祀られています。
*NHK放送博物館(港区愛宕2-1-1)
4階建ての展示フロアーがあり、放送の歴史、8Kのスーパーハイビジョンの体験、約1万件の番組公開ライブラリーなどがあります。
*浅岡飯炊きの井
仙台藩の家督相続をめぐっての御家騒動(伊達騒動)の時に、幼い嗣子を毒殺から守るため母の浅岡の局が自らこの井戸で水を汲んで調理したといわれる井戸が増上寺前にある港区役所の敷地内にあります。この地は当時伊達家の支度所があった場所だそうです。
*慶應義塾大学薬学部キャンパス散策
1号館の屋上にある薬用植物園分園
(本園は浦和共立Campus内)
では薬用植物50種を育てています。
*増上寺(三縁山広度院増上寺 浄土宗大本山 港区芝公園4-7-35)
明徳4年(1393年)に現在の平河町付近に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、現在地には慶長3年(1593年)に移転されたようです。江戸時代には120の堂宇、100件超の学寮がある広大な寺領を持ったお寺であったとのことです。
徳川家の菩提寺として有名で家康の葬儀もここで行われています(元和2年;1616年)。
現在は将軍家墓所が公開(拝観料500円)されており、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の墓所、秀忠の正室崇源院(淀殿の妹のお江)、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院(皇女和宮)の墓所、3代家光側室桂昌院、6代家宣側室月光院の墓所などがあります。
*首提灯
江戸時代の増上寺の境内は暗がりだったこともあって落語の首提灯の舞台にもなっている。内容は、酔った町人が増上寺の境内で剣の達人の武士に絡む、武士は相手にしなかったが、ついに堪忍袋の緒が切れて町人の首を切って立ち去る。あまりに鮮やかに切られたため町人は気がつかず歩いていると火事が自分の内の近くで起こったため、近所の家に火事見舞いに走ると首が落ちそうになり自分で自分の首を提灯のようにぶら下げて持ち挨拶に行くという話で六代目円生が演じて芸術祭文部大臣賞を受賞している。
増上寺の門の前にこの碑があります。
*広度院(増上寺の子院 港区芝公園1-8-16)
増上寺の前にあるお寺で、表門と練塀が有形文化財になっています。表門は閉じられていますが横の通用口から「表門・練塀の説明板」がある境内に入れます。
*常照寺(港区芝公園1-8-9)
大岡越前が裁いた殺人未遂の傷害事件で歌舞伎・浄瑠璃・落語の題材になっている白子屋お熊の墓があるので覗いてみましょう。また当寺は歌舞伎の名門市川團十郎家の菩提寺でもあり、かつては團十郎の墓もあったそうです(現在は青山墓地にある)。
歌舞伎では、「恋娘黄八丈城木屋お駒」という題だそうですが、話は資金繰りに苦しんだ材木問屋の白木屋が長女のお熊に大伝馬町の資産家の息子と結納金を目当てに結婚させた。しかし、お熊は夫を嫌い手代と密通し母親もこれを黙認していた。離婚をすると結納金を返さなければならないため毒殺を企てるが体調を崩すにとどまったためお熊と母親は下女に命じて夫に切りかからせるが取り押さえられて失敗する。夫の実家がこの事件に疑問を抱き奉行所に訴え、取り調べの結果お熊は密通と殺人未遂で引き回しの上獄門となった。
お熊は美貌で知られていたので引き回しに群衆が押し掛けた。裸馬に乗せられたお熊が当時非常に高価であった黄八丈の小袖を掛けるという派手なパフォーマンスで波紋を呼び色々な書物にも取り上げられた。なお、当時暫くの間黄八丈は忌み嫌われ川柳にも「材木が八丈を着て名を残し」とか「江戸中の質の流るる黄八丈」などと詠われたそうです。
*慶應義塾大学の揺籃期である新銭座(後期)学舎の跡
上野の彰義隊の戦いにおける砲声になかウェーランドの経済書の講義が続いたという話は有名ですが、その時の学舎跡が浜松町駅のそばにあります。